1996年12月5日は広島の厳島神社原爆ドーム世界遺産に登録された日です。


原爆ドームは言わずと知れた太平洋戦争中の1945年8月6日午前8時15分17秒にアメリカ軍の爆撃機B-29『エノラ・ゲイ』により原子爆弾(広島に落とされたのは通称『リトルボーイ』と呼ばれるウラン爆弾)を落とされ残った被爆建造物です。

また、戦争中によりできた世界遺産という事で負の世界遺産(人類が犯した悲惨な出来事を伝え、そうした悲劇を二度と起こさないための戒めとなる物件)です。

余談ですが、原爆関係で負の世界遺産として登録されている場所は他にマーシャル諸島のビキニ環礁の核実験場跡があり、ここで日本のマグロ漁船第五福竜丸こちら 参照)』も被爆をしています。

原爆ドームは被爆以前は『広島県物産陳列館』として1915年に建てられました。
これは広島県の物産品の販売促進を図る拠点として建てられ、チェコ人の建築家ヤン・レッツェルにより設計されました。
その後1933年『広島県産業奨励館』に改称され、博物館・美術館としての役割を担っていきましたが、1944年3月にアメリカ軍の本土空襲が激しくなり、廃止されてしまいした。
今残されている原爆ドームで特徴的なところと言ったら天井のドームでしょうけど、もともとの建物はドームだけではなく、左右にも建物は伸びています。
では何故ドームだけがほぼ形を残しているのかというと、理由はいくつかあります。


衝撃波が受けた方向がほぼ直上からであったこと(爆心地からの距離は約0.16kmだったため、横からの爆風がほぼなく、衝撃波をまともに受けることがほとんどなかったため)。

窓が多かったため、爆風が窓から吹き抜ける条件が整っていたこと(ドーム内の空気圧が高くならず、被害をまぬがれた)。

・ドーム部分だけは本体建造物と構造が異なり、屋根には銅板が使用されていたことにより、融点(個体が液体に変わる温度)が低いため、爆風到達前の熱線により屋根が溶け、溶けたところから爆風が通過したことにより力が加わらなかった(銅の融点は1084.62 ℃に対し、鉄は1538 ℃です)。


ちなみにドームが残っていたからといってそこにいた人が生き残ったかというと話は別で、原爆投下時に建物に勤務していた職員約30名は放射線被曝や熱戦・爆風により全員即死したと言われています。

その後しばらくは窓枠などが炎上せずに残っていましたが、可燃物に火がつき、全焼し、最終的に今の形になったと言われています。




もう一つの世界遺産の厳島神社は広島県廿日市市の厳島(宮島)にある神社で、別名『伊都岐島神社』とも呼ばれています。
厳島は一般に『安芸の宮島』とも呼ばれ日本三景(他に宮城県の松島と京都府の天橋立)の1つに数えられています。
厳島は平安時代末期、平清盛により現在の海上に立つ大規模な社殿が整えられたと言われています(TVなどでよく引き潮満ち潮時の時の映像が有名かもしれませんね)。
また、厳島は1度だけここで戦争を行い、大勝利を収めた場所としても有名です。
引治元年(1555年)の厳島の戦いこちら 参照)です。
この戦いの後、戦いに勝利した毛利元就大掛かりな社殿修復を行っています。
また、豊臣秀吉九州遠征の途上で厳島に参拝し、大経堂(現:千畳閣)の造営を行われ、秀吉の死により工事が途中で中止され、板壁や天井の板もない未完成な状態のままになっています。
千畳閣は豊臣秀吉加藤清正を祀っています。
江戸時代に入ると厳島詣が民衆に広まり、多くの参拝者で賑わいました。




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