1804年12月2日はフランス革命で指揮官として活躍していたナポレオン・ボナパルトノートルダム大聖堂において即位式を行い、『フランス人民の皇帝』に就いた日です(フランス第一帝政)。




一応フランス革命は初めは1789年7月14日のバスティーユ襲撃こちら 参照)を皮切りにフランス国内で始まっていきますが、その影響はオーストリアやイギリスなどを巻き込んでいきます(ナポレオンが後に指揮官になったことからナポレオン戦争とも言います)。
ナポレオンはフランス革命においては市民側の指揮者として活躍し、数々の戦いにおいてイギリスなどとの戦いで砲撃戦などを用いて勝利を掴み、市民から大いに信頼を得ていました。



そんな中1804年、ナポレオンは国民投票での圧倒的な支持を受けてフランス皇帝に即位したことには一部では批判を浴びることにもつながりました。
それというのも、フランス革命はもともとは国王ルイ16世の政治に不満を持ち市民が反乱を起こし国王を処刑したのにまた皇帝が誕生してしまったわけです。

この批判で特に有名な逸話としては、ベートーヴェンの話があります。
ベートーヴェンはフランス革命の英雄ナポレオンを称える曲交響曲第3番『エロイカ(英雄)』)を作り、それを正式発表する当日、ナポレオンが即位式で皇帝に就いたことを知ったとき、ベートーヴェンはナポレオンを『彼もまた俗物であったか』と激怒し、献呈辞が書いてある表紙を破り取ったという逸話が残っています。
ただしこれは弟子のフェルディナント・リースの回想に基づく逸話で、実際はウィーン楽友協会にある浄書総譜には表紙を破り取った形跡はなく、表紙に書かれた『ボナパルト』という題名とナポレオンへの献呈辞をペンでかき消した上に、『シンフォニア・エロイカ』と改題され『ある英雄の思い出のために』と書き加えられているそうです。




また、ナポレオンはフランスだけではなく、イタリアの一部を領土にしたりと勢力が拡大していたため、周りの列強国はフランスに対して対仏同盟を結びナポレオンに対抗します。
そして、ナポレオン皇帝即位一周年に当たる1805年12月2日、モラヴィアのアウステルリッツ郊外のプラツェン高地において、フランス軍とオーストリア・ロシア連合軍が激突した日でもあります。
この戦いをアウステルリッツの戦いと言われ、ナポレオンは優勢な敵に対して、見事な勝利を飾ることになります。
ナポレオン率いる7万3千に対して連合軍は8万5千ほどでしたが、ナポレオンはわざと右翼を手薄にし、敵が右翼に集中してきたところを中央突破し、挟み撃ちにして勝利を得ます。
この戦いで連合軍は死傷者1万5千人に及び、捕虜も2万人にのぼったと言われています。
そして12月26日、オーストリアはプレスブルクの和約を終結してフランスへ屈服したことにより、第三次対仏同盟は崩壊する結果となります。
また、フランツ2世は神聖ローマ皇帝位から退位したことにより、神聖ローマ帝国は解体され、ライン同盟(フランス帝国とドイツ諸侯との同盟)が成立します。
この戦いはフランス皇帝ナポレオン1世、ロシア皇帝アレクサンドル1世、神聖ローマ帝国皇帝フランツ2世の3人の皇帝が集結していたことから別名『三帝会戦』とも呼ばれています。
実はこの時期がナポレオンの絶頂期と言われ、この後は勝利はしますが、1812年のロシア遠征により、大寒波を甘く見たナポレオンは大敗北を喫し、失楽していくことになります。



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