1600年10月12日(慶長5年9月6日)は徳川秀忠を総大将とする徳川軍主力部隊3万8千が上田城に立て籠った真田昌幸幸村親子に対し攻撃命令を出した日にあたります。
この戦いを一般に『第2次上田合戦』と呼ばれます。


少しさかのぼり、1600年8月26日(慶長5年7月18日)に徳川方が守る伏見城を石田三成率いる西軍が攻撃をした事から始まります(こちら 参照)。
この戦いは少数人数を残した伏見城の落城により勝負は付きますが、これは徳川家康からしてみれば計算内のことでした。
伏見城の戦いで守将鳥居元忠が討ち死にをしたことを知った家康は、上杉の会津討伐中小山において軍議を開きます(こちら 参照)。
この時大半の武将は徳川方につきましたが、小山から少し離れた犬伏というところで親子会議を開いていた真田家は親兄弟敵味方に別れる事により、真田家を守る事を決意します(犬伏の別れ)。

西軍についた真田昌幸・幸村親子はすぐさま軍を上田に向け西に進みます。
そして東軍についた真田信幸はそのまま家康のもとに駆けつけ忠誠を誓います。
昌幸はまず信幸の居城沼田城へ立ち寄り、あわよくば沼田を乗っ取り合戦を有利にしようと考えました。
そこで昌幸は沼田城に開門をするように呼びかけますが、門はピクリとも動きませんでした。
そして門の上に姿を表したのが信幸の正室小松姫でした。
小松姫は何故義父上(昌幸)がここに居るのか?夫はいないのか?など聞き、門を開ける気配は全く感じられませんでした。
そこで沼田乗っ取りを諦め、孫の信吉信政と会わせて欲しいと頼みましたが、小松姫は最初はこれを断りましたが、門の上から月明かりの下2人を連れてきて昌幸と顔を合わせることを受け入れました。
昌幸・幸村親子は1晩沼田城下の寺に下宿をし、翌早朝上田へ向け出発をします。
この後小松姫は石田三成挙兵の知らせを知り、夫信幸の名目を守ることになります。



一方慶長5年8月24日宇都宮を出発した秀忠軍は9月2日に小諸城に入城します。
まず昌幸を降伏させようと信幸と本田忠政(本多忠勝の嫡男)を使者に送り3日国分寺で会見を行います。
昌幸は頭を丸め、開城する旨を申し入れました。
ただし開城の準備をしたいので1・2日だけ準備をさせて欲しいと申し出を昌幸はします。
これに忠政は喜びましたが、信幸は父がこんなに簡単に降伏するとは思えないと感じましたが、昌幸の言葉を秀忠に伝えました。
しかし、何時までたっても上田城が開城する気配を示しませんでした。
不審に思った秀忠は開城催促の使者を送ると驚きの返答が返ってきました。


『戦の準備時間をいただきありがとうございます。
既に籠城の準備は出来ましたのでいつでも攻めて開城させてください。』


開城ではなく宣戦布告をされて戻ってきたのです。
これには秀忠も大激怒します。
押し寄せる徳川軍総勢3万8千、対する真田籠城軍はわずか2千~4千だったと言われています。
5日まず手始めに秀忠は幸村が守る砥石城を信幸に攻略するように命じます。
幸村は信幸が進軍して来たのを見て戦わず砥石城を明け渡し、上田城に戻ってきます。
これにより信幸は兵力を失わず砥石城を攻略します。
実はこれは昌幸の考えで、信幸に砥石城攻略の手柄を立たせると同時に信幸を砥石城に封じるものでした。
同じ真田の兵で同士打ちを避けるためですね。
もちろん信幸以外が攻め込んできた場合は叩きのめすように幸村にあらかじめ言っていました。
6日に秀忠は上田城外の染谷台に陣を敷き上田城を包囲します。
秀忠は真田軍をおびき出すために実り始めた稲を刈り、慌てて出てきたところを叩く作戦に出ました。
しかし、これは昌幸によまれ、逆に挑発をされ徳川軍は上田城へと独断攻撃を仕掛けます。
徳川軍は上田城深くまで攻め込んだ時、真田軍の伏兵があちらこちらから襲いかかり大混乱に陥り、総崩れこそまぬがれましたが大損害を受けます。
これにより徳川軍はなかなか攻撃をすることができなくなり、無駄に時間だけが過ぎていくことになります。
そして落とすことすらできず秀忠にある知らせが届きます。


『家康が岐阜に入った』


自分が上田で足止めをしている間に決戦の日が近づいているというものでした。
流石にこれには焦りを感じ秀忠は急いで関ヶ原へと向かいますが、道中の悪天候などによりなかなか軍を進める事ができず、9月15日の関ヶ原の戦いが終わってから4日後に家康のもとに到着をします。

この戦いにより真田の名はさらに高まります。


これについて徳川方にとって不運だったのが


・第一次上田合戦の参加者が信幸を除いて秀忠軍に誰一人としていなかった事。

・秀忠に家康が岐阜に到着したという使者が到着したのが9月9日とかなり遅れた事。

・関ヶ原へ向かう際悪天候に見舞われ行軍がうまくいかなかった事。


などがあります。

ちなみに昌幸と幸村は上田合戦では勝利を収めましたが、関ヶ原の戦いで家康に敗れたため、敗将となってしまいます。
そのため死罪が普通でしたが、信幸と小松姫の父本多忠勝懇願により高野山に流罪になりました。
上田から高野山へ行く際、昌幸は


『さてもさても口惜しきことかな。内府をこそ、このようにしてやろうと希うておったものを』


とつぶやき涙を流したと言われています。

九度山生活についてはこちら も合わせて参照してください。



この戦いの時あるエピソードがあります。
秀忠が冠が岳にいる先陣の石川康長日根野吉明に連絡をするため島田兵四郎という者に伝令として出します。
しかし、兵四郎は地理がよく分からず、上田城を通って行かなければ目的地に到達することができませんでした。
兵四郎がとった行動はなんと上田城の大手門前に堂々と馬を走らせ、城の番兵に向かって


『私は江戸中納言(=秀忠)の家来の島田兵四郎という者です。
君命を帯びて、我が先陣の冠が岳まで連絡にいきたく、どうか城内を通してくだされ』


と叫びました。
味方に連絡するために、現在交戦中の敵城を通してくれ、というのだから、とんでもない話である。
前代未聞の出来事だったため番兵たちは、真田昌幸に報告すると、


『なんと肝っ玉の太い武士だろう。
通してやらねばこちらの料簡の狭さになる。
門を開けてやれ』


と門を開けて敵の伝令を通すように指示しました。

『かたじけない』と城内を駆け抜け裏門を抜ける際、兵四郎はちゃっかりと『帰りももう一度来ますので、また通してくだされ』と言って使者へ向かいました。
その言葉通り、再び島田兵四郎が帰りに城に立ち寄った時、真田昌幸はいたく感服し、兵四郎に会い、


『そなたは城内を通過したので、我が城内の様子を見ただろう。
しかし様々な備えはあれど、それは城の本当の守りではない。
真の守りは、城の大将の心の中にあるのだ。』


と、自ら直々に案内して城内を詳しく見せてやり、その後門を開けて帰してやったといいます。


現在では毎年上田真田まつりが昭和の日に行われています。

その時中央交差点を通行止めにしてそこでこの戦いの再現を芝居形式で行われています。

騎馬武者(真田幸隆様、昌幸様、幸村様)も見ることができます。

また信州上田おもてなし武将も参加していますので見ることができますよ。

機会があったら見てみてください。



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