1614年8月31日は徳川家康が、豊臣秀頼が再建した方広寺の鐘に刻まれた国家安康』という文字にいちゃもんを付け落慶法要を延期させた日です。


方広寺とは天台宗山門派の寺豊臣秀吉により木食応其を開山として建立されました。
しかし1596年9月5日(慶長元年閏7月13日)慶長伏見地震により倒壊してしまいました。
家康は二条城にて1611年秀頼と会見しますが、たくましく成長した秀頼を見て豊臣家を滅ぼさなければならないと考えたと言われています。
そこで家康が目をつけたのが、慶長伏見地震で倒壊した方広寺再建でした。
豊臣秀吉が建立した方広寺ということで秀頼は快くこれを引受ました。
実はこの再建は徳川家康が大阪城に蓄えられている金銀を使わせるためにあえて秀頼に進言をし、蓄えを使わせることが目的だと言われています。
そして方広寺大仏殿などがほぼ完成し、鐘楼なども完成し残りは落慶法要をするだけというまさにその時、家康は崇伝と腹心本田正純を通じて豊臣家を怒らせる口実が舞い込んできました。
それが『方広寺鐘銘事件』です。
家康は鐘銘に刻まれている『国家安康』と『君臣豊楽』という2語に対して身勝手ないちゃもんを付けたのです。


まずはじめの『国家安康』ですが、これの本当の意味は


『国の政治が正しく安定している』


というような意味なのですが、徳川方はこれを


『家康を安の字で切り捨てる』


という意味だと言ってきたのです。
つまりは家康を切り捨てようという意思表示(呪い)だと言うことです。
次に注目するべきところは『君臣豊楽』という文字ですが、これの本当の意味は


『上は領主から下は庶民に至るまで豊かな生活を楽しむ』


という意味なのですが、徳川方はこれを


『豊臣(臣豊)を君主としてこれを楽しむ』


と言ってきたのです。
これを合わせるとお分かりのように完全な言いがかりです。
実際にはこの鐘銘にはこの8文字以外にも多くの言葉がびっしり刻まれていますので、これを探し出すのはさすがに苦労したんでしょうね。
もしかしたら徳川方には昔から仏教徒の家臣が多かったため見つけるのは容易ではなかったかもしれませんが…家康が三河統一を起こした際、三河国内で一向一揆が起こり、徳川家臣達も多く一揆側に付きました。
家康が方広寺を建立をしろと言っておいて直前になって落慶法要を延期しろと言ってきた事に対して当然豊臣家は激怒します。
この事件がきっかけで同年10月2日、豊臣方は戦の準備を始め、同年11月19日大坂の陣が始まります。

大坂の陣では豊臣方に上田から九度山に蟄居していた真田幸村(信繁)元土佐大名長宗我部盛親黒田長政と喧嘩して出奔した後藤又兵衛基次関ヶ原の戦いで改易になった毛利勝永明石全登がいます。
そしてこの五人を通称『大坂五人衆』と呼ばれ、活躍をします。
しかし、ほとんどが牢人(浪人)だったため、あまりまとまりがなかったと言われ、お互い疑心暗鬼の状態で戦っていたと言われています。
現に真田幸村は大坂譜代の大野治長等からは幕府側に兄真田信之(大阪には不参戦)や叔父の真田信伊がいたため、裏切るのではないかという味方からの陰口等が頻繁にあったと言われています。
大坂の陣の詳しいことはまた機会があれば…


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