1590年8月30日は徳川家康が江戸城に公式入城した日に当たります(江戸城築城はこちら )。

そして、家康は江戸の町を開拓し力を蓄えていきます。
また、このことから旧暦の8月1日(八朔)は、江戸時代を通じて正月に次ぐ祝日とされていました。
そして、1600年関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利し、天下の地盤を固めてから、全国の大名に号令をかけ修繕工事が続いていき、約260年という長い徳川幕府が続いていきます。


その25年後の1615年8月30日は江戸幕府が全国の大名に対して武家諸法度を発布し、武家を統制しました。
この時の武家諸法度を通称『元和令』と言われています。
元和令とは1615年8月30日は旧暦が元和と言われていたためこのように呼ばれています。
ちなみに同年に起こった徳川VS豊臣の戦争がありますが(通称大阪の役または大阪冬の陣・夏の陣)、この戦いは慶長という年号が使われています。
この元和令は13箇条からなり、徳川家康以心崇伝らに命じて起草されましたが、内容的には


『文武弓馬の道をたしなむこと』
『謀反人や殺害をおかした者を追放』
『幕府に許可なく婚姻関係を結ぶことを禁止』


などがあります。
また、直前に定められた『一国一城令』と関連して、


『居城の修復はかならず幕府に報告すること』
『新規の築城は禁止すること』


も明記されました。

実はこの居城の修復に関して破って改易になった有名な人物がいます。
それが関ヶ原の戦いの際、岐阜城を落とす功績をあげたり、宇喜多軍攻撃に功績をあげ広島初代藩主になった福島正則参照 )です。
元和3年の大洪水で破損した広島城を修繕し(当時正則は事後報告ですまそうとしていたとも言われています)、将軍徳川秀忠の怒りを買うことになりました。
この際福島氏家臣たちは籠城をし戦いを決意していましたが、正則は


『今は泰平の世の中だ。
そして俺は弓(武人)で武器だ。
平和な世の中には、武器は土蔵にしまわれて、鍵をかけられるべきだ。
おとなしく秀忠さまの命令に従おう。』


と家臣たちの乱心を抑え広島城を引き渡したと言われています。
そのため正則は当初の津軽への転封・蟄居から川中島へ改易されることになりました。

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