アイスの「あ」の字。


先日、ボクの大好きな女性の友人を車で家に送り届ける車内で、彼女はボクにこう言ったよ。

「ホント私、働くためだけにただ生きている気がするんですよ」


そんなことないよって、言ってはみたもののそれはさよならの挨拶よりも寂しい余韻だ。
友だちとして、できることはないかもしれないけれど、ひととして自分なりに考えてみることはできそうだ。

彼女が毎日毎日 タイ焼きくんよろしく、身を粉にして働いているのを知っている。

月にとれる休みは3日ほどであろうか。

生まれてこの方、男性とはお付き合いしたことがないという彼女は、誰もがみとめるチャーミングな女性。

ここ何年もときめいたことはなく、恋愛をするという感覚すら思い出せないようである。

「 我 思 う 、 ゆ え に 我 あ り 」 というテーゼをうちたて、

生物界と無生物界の区別をつけなかった
フランスの哲学者デカルトは、

亡くなった5歳の娘に似せた自動人形を作って 溺愛していた。

彼は機械論的世界観を経たのち、
晩年、人間の基本的な情念を「驚き」「愛」「憎しみ」「欲望」「喜び」「悲しみ」の6つに分類する。

精神が精神に対して能動的に働くときに意志が生じ、
精神が身体に対して能動的に働くときに身体への統制が生じる。

また精神が精神に対して受動的になるときには、純粋に知性的な対象についての認識が生じる。
そして、精神が身体に対して受動的になるときに感覚が生ずる。

恋愛とは意志ではなく、身体への統制でもなければ、知性的な認識でもない。

感覚である。


それは心に働きかけて情念を呼び起こしている極めて受動的に発生する感情とは言えはしまいか。

人間のからだというものは、諸機械がみな各自に運動していて、それで生活している。
それは一個の力、「生活力」であると名付けた江戸時代末期の蘭方医、緒方洪庵は

「人間機械論」的な思想を門人に教鞭し、 「いまだ定説あることなし」 と幕末の志士に説いたという。

自己をまるで意志のない、機械のように動くことを維持し続けている人間であるかのように認識すること。
彼女の中にわたしは生きているのか。

生物として個体や種を維持しようとする生得的欲求の中に
食欲、性欲、睡眠欲がある。

個人的な経験と観察による見解に過ぎないことであるが、
すぎる受動的な情念は極めて強力に人間の身体に影響を及ぼすと思う。

悲しすぎる体験は食欲を減衰させ、怒りという激烈な感情は睡眠欲を打ち消し、満たされた楽しい時間は性欲という種をまかない。


極めて複雑な働きかけが、外部からインプットされ、情報として蓄積されつつ、身体に影響を及ぼす。
これ以上は霊的な精神のの領域のような気がするから、お酒の席でも理解できそうにはない。

ただ、世阿弥は劇を演じる者の日常の心構えをこう著した。


生死去来 棚頭傀儡 一線断時 落落磊磊


(生と死が去ってまた来る、棚から吊った操り人形が、その糸を切るやいなや、ガラガラと崩れ落ちるように)


人間と機械のはざまにあるオートマトンは人間の作り出しもの。ボクの好きなターンAはおヒゲの機械人形さ。

おもしろき こともなき世を おもしろく (すみなすものは心なりけり)

受動的であるべきか、能動的であるべきか。ある星の下に生まれ、毎年巡り来る運命の星を見上げるのはひとだ。

これは今度飲みに行くときに、話すべき事を書き留めておくだけの メモ のような日記よ。