僕がその話を最初に聞いたのは、二十七歳の秋だった。  

コンビニの雑誌コーナーで立ち読みしていた『週刊新潮』の隅っこに、誰かが折り目をつけて置いていった古いコラムがあって、そこに小さく「桃から生まれた男」という見出しがあった。  

僕は別に興味があったわけじゃない。ただ、その日の夕方、冷蔵庫にビールが一本しか残っていなくて、買うつもりで店に入っただけだ。


それから三日後の夜、僕はいつものようにジャズ喫茶のカウンターでジム・ホールのパーカーを聴いていた。  

バーテンダーの佐藤さんは六十を過ぎてもなお、髪をオールバックに固めていて、いつも同じ黒のタートルネックを着ていた。彼はグラスを拭きながら、唐突に言った。


「君、桃から生まれた男の話、知ってる?」


僕はグラスを置いて、少し考えた。  

「…さっき週刊誌で見たような気はするけど」


佐藤さんは小さく笑って、棚から古いウイスキーのボトルを取り出した。  

「うちの爺さんがよく話してたんだよ。戦後すぐの頃の話さ」


それが始まりだった。


話によると、ある夏の朝、川の上流から大きな桃が流れてきた。  

普通の桃じゃない。直径五十センチはある、完璧に丸い、ほとんど球体に近い桃だった。  

川岸で洗濯をしていた老婆がそれを見つけて、よろよろと家まで運んだ。  

中から声がした。


「開けてくれ」


老婆は包丁を入れた。  

桃は静かに割れて、中から二十歳くらいの青年が出てきた。  

裸で、濡れた髪が額に張り付いていて、妙に落ち着いた目つきをしていた。  

彼は老婆を見上げて、静かに言った。


「僕はここで何をすればいいんだろう」


それが彼の最初の言葉だった。


青年は「モモ」と名乗った。  

本名かどうかは誰も知らない。ただ、そう名乗った。  

彼はあまり喋らなかった。代わりに、古いレコードをかけながら、庭の隅で一日中煙草を吸っていた。  

煙草はいつもマルボロの赤。フィルターを噛む癖があった。


ある日、村の外れに住む老人がやってきて言った。  

「鬼ヶ島に鬼がいる。毎年若い女をさらっていく。もう何年も続いているんだ」


モモは黡を灰皿に押しつけて、ゆっくりと立ち上がった。  

「行ってみようか」


彼は特別な武器を持っていなかった。  

ただ、古いキャンバス地のリュックに、  

・缶詰のコーンスープ二つ  

・ウォークマンとカセットテープ三本(マイルス・デイヴィスとビル・エヴァンスと、なぜか矢野顕子)  

・予備の煙草二箱  

だけを詰めて、家を出た。


道中、彼は犬と猿と雉と出会った。  

三人とも妙に人間臭かった。  

犬は元暴力団員で、指が一本欠けていた。  

猿はかつて大学で哲学を教えていたが、ある日突然講義を放り出して山に入った男だった。  

雉は元ジャズ・シンガーで、喉を悪くして引退したあと、田舎でひっそり暮らしていた。


彼らは特に理由もなくモモについていった。  

モモが「来る?」と聞いたとき、三人とも「別にいいけど」と答えただけだった。


鬼ヶ島に着いたとき、モモはリュックからウォークマンを取り出して、イヤホンを耳に差し込んだ。  

『Kind of Blue』が流れ始めた。  

彼は静かに鬼の親玉の前に立って言った。


「君たちは何のために女をさらうんだろう」


鬼の親玉は巨大な体を揺らして笑った。  

「力だよ。支配だよ。快楽だよ」


モモは小さく頷いて、こう言った。


「そうか。僕にはよくわからないけど……それなら、もういいんじゃないかな」


そして彼は戦わなかった。  

ただ、鬼たちの前で三十分ほど立ち尽くして、マイルスのトランペットを聴いていた。  

鬼たちは最初は嘲笑っていたが、次第に黙り込み、やがて誰もが地面に座り込んでしまった。  

誰も動かなかった。  

誰も喋らなかった。  

ただ、音楽だけが島に響いていた。


翌朝、モモは犬と猿と雉を連れて島を去った。  

鬼たちは誰も追ってこなかった。  

さらわれていた女たちも、なぜか自分たちで舟を漕いで帰っていった。


村に帰ったモモは、また庭の隅で煙草を吸い始めた。  

老婆が洗濯物を干しながら、ぽつりと言った。


「結局、何だったんだろうね、あんた」


モモは空を見上げて、ゆっくり答えた。


「わからない。でも、多分……ただ、桃から出てきただけなんだと思う」


それから彼はもう二度と鬼ヶ島の話をしなかった。  

ただ、時々、夜中に一人でウォークマンをかけて、庭の暗がりでマイルスを聴いている姿が、村人たちの記憶に残った。


僕はその話を佐藤さんから聞いて、ビールを飲み干した。  

そして静かに呟いた。


「なんか……わかる気がする」


佐藤さんはグラスを拭きながら、微笑んだ。


「わかる奴が一人でもいれば、それでいいんじゃないか」


外はもう、深い秋の夜だった。