おはようございます(´・ω・`)
先月末にぷち散策をしてきました
今回は少し長いので、2回に分けます🙇
最寄りの場所から辿ります
岩出市の神通温泉から県境を越えて、大阪府道62号を道なりに北へ走ると右側に犬鳴山温泉があり、少し市道(道幅狭いです)を東へ行くと右側に有料駐車場があります

七宝(しっぽう)瀧寺『七宝瀧寺公式サイト』より
真言宗犬鳴派大本山。山号は犬鳴山。 本尊は倶利加羅大龍不動明王。近畿三十六不動尊霊場第三十三番札所。神仏霊場大阪第十三番札所。役行者霊蹟札所。南海沿線七福神札所。
公式サイトによれば、創建は斉明天皇7年(661年)、役行者によって開基された。大和の大峯山より6年早く開山したことで、元上山とも称し、開山時に倶利加羅大龍不動明王が出現して本尊としたと伝わる。後に高野山を開いた弘法大師もこの地で修行し、山内の七瀑に七福神を祀って以来、国家安穏・五穀豊穣・諸人快楽の密法が修されており、国内最古の霊山として和泉葛城屈指の神仏集合霊場として、現在に至っている。
時を経て、南北朝時代の犬鳴山は南朝方の要衝の地であり、密接な関係にあった。正平17年(1362年)、南朝方の中心武将橋本正高は、犬鳴山伏の志一上人を犬鳴山に招いて不動堂を建立して、犬鳴山における中興となった。その後の天授2年(1375年)8月、犬鳴山法師願正上山が法華妙典1万部を納め、国家安穏の大修法を為し、新たに14坊を建立して、前後合わせて20の僧坊が犬鳴山を固めることとなったと云われる。この犬鳴山の後援を得た橋本正高は、天授4年(1377年)11月に寡兵ながら、北朝方3万を土丸城で迎え討ち、善戦するも敗れて紀伊に逃れたが、翌年正月に再び紀伊から討って出て土丸城を奪還している。その後も一進一退を繰り返したが、その都度の山越えには犬鳴山の力添えが大きく貢献していたと云われる。南北朝時代終結後も熊野信仰と葛城修験道が隆盛するにあたり、犬鳴山も隆盛を極め、関白九条植通をはじめとする公家や諸侯も犬鳴山へ足を運んでいる。しかし、戦国時代に至ると犬鳴山も戦乱の渦中にあり、織田信長は己の意に沿わないという理由で寺領を没収。次いで、天正13年(1585年)の紀州征伐を目指す豊臣秀吉により全山焼失という憂き目に遭う。しかし、秀吉は一転して戦後に米麦を寄進し、滝本坊(現在の宿坊)を再建。御供米30石を寄進したと云われる。
江戸時代に至り、再び修験道の復興と同時に犬鳴山も隆盛となり、承応元年(1652年)に観音堂、万治年間(1658年~1671年)に本堂の修理及び本堂下の石橋の建立、享保5年(1720年)に本堂を再建し、佐野の豪商食野行康が石灯籠を寄進。寛政5年(1793年)にも岸和田藩主岡部長備が石灯籠を寄進する等、当時の人々の信仰の篤さが窺い知ることが出来る。さらに、嘉永2年(1849年)には葛城修験道の現存する唯一の文献である「葛城雑記」が犬鳴山において智航上人によって執筆されたと云う。
しかし、明治時代初期に廃仏毀釈と共に修験道が禁止となり、犬鳴山も著しく衰退。明治時代後期に復興の気運が高まり、昭和20年(1945年)の第二次世界大戦終結後も乗り越えて復興に努め、昭和25年(1950年)8月7日に真言宗犬鳴派として独立。現在に至っている。
境内を含む犬鳴山全域が国指定名勝、所蔵する七宝瀧寺の剣が大阪府指定文化財、尊勝曼荼羅図・不動明王二童子四十八使者図・八大童子図・銅鐸が泉佐野市指定文化財に指定されています。

家を出るのが遅くなり、到着したのが15時。本堂に入ってから気づいたのですが、本堂閉門が16時15分でギリギリの時間帯でした

駐車場から参道を歩いて行きますが、この奥にも店が点在しているため、通行には注意が必要です



大阪みどりの百選


石灯籠

左右一対あり、境内には多数の石灯籠が点在しています


参道


行者笈立岩

参道右側にあります


石碑


この先に総門があります


大師堂

総門手前左側にあります


総門


案内板


ここから先は石畳や石階段、舗装等で整備されてはいますが、不安定な箇所がいくつもあります。足元には十分な配慮が必要です


②に続きます
