昨日の続きです
大和神社から奈良県道51号を南へ走り、右側に見えるファミリーマートを過ぎて少し行った先にあるT字路を左(東、途中長岳寺の看板あり)に曲がり、2つ目のT字路(左側に「千万」の看板がある)を左に曲がると右側に長岳寺の駐車場があります
高野山真言宗の寺院。山号は釜口山。本尊は阿弥陀如来(国指定重要文化財、仁平元年(1151年)の作)。大和十三仏霊場第四番札所。ぼけよけ二十四地蔵尊霊場第十六番札所。関西花の寺二十五ヶ寺第十九番札所。淳和天皇勅願寺。
由緒書によれば、天長元年(824年)、淳和天皇の勅願により、弘法大師空海が大和神社の神宮寺として創建したことに始まり、本堂・五重塔・十羅刹堂・真言堂・経蔵・宝蔵・愛染堂・大師堂・宿堂・坊舎42坊・外客坊・浴室等が整備された。『普賢院記録』によれば、嘉禄元年(1225年)8月12日、西大寺(後日更新)の中興である興正上人が長岳寺別院律家霊山院の静慶上人に師事して不動弥陀胎蔵秘道場観を授かった。また、正中年間(1324年~1326年)に奈良興福寺大乗院門跡の聖信上人、明応年間(1492年~1501年)に同じ大乗院門跡の慈◯上人も各々本願となっている。中世には広大な寺領を有し、室町時代に◯◯氏の庇護を受けたが、応仁の乱、また、文亀2年(1502年)2月の兵乱で堂塔を焼失。天正8年(1580年)の指出に際しては高300石であったが、天下を治めた豊臣秀吉により寺領を没収された。しかし、慶長7年(1602年)、徳川家康が由緒を訪ね、100石を寄進し、境内を整備。以来、朱印地として明治時代を迎えた。明治時代の神仏分離令により、廃絶に及ばんとしたが、民間を中心に広がった大師信仰によって再建され、現在に至る(◯は字消えて読めず)。
境内にある鐘楼門・旧地蔵院・旧地蔵院本堂・五智院(境内飛び地)、所蔵する阿弥陀三尊・多聞天・増長天が国指定重要文化財、境内にある大師堂、所蔵する佛阿弥陀来迎図は奈良県指定文化財に指定されています。
由緒書によれば、伝承として、戦国時代、長岳寺の東にある龍王山に豪族十市氏の居城があった。ある時、松永久秀に攻められ、長岳寺境内でも戦いがあり、敵に斬られた十市氏の武将が血だらけになって縁側から本堂へ逃げ込んで息絶えたと云う。その武将の血の足跡が付いていた縁側の板を天井に張り替えた。由緒書のある右の柱の上方、天井の角の足跡があると云う。
あれかなぁ~って思いながら撮りました
鐘楼門の右側にあります
②に続きます