石上神宮①(鳥居~廻廊。奈良県天理市布留町) | ゆきまるのブログ

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風の吹くままに身を漂わせてふわふわふわふわ…「紀伊続風土記」を片手に和歌山県内の神社仏閣を巡る歴史好きの他愛の無いブログです(´・ω・`)

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昨日の続きですニコニコ

帯解寺から国道169号を南へ走り、川原城町交差点を左(東)に曲がり、布留交差点を右(南、奈良県道51号)に曲がると左側に石上(いそのかみ)神宮の参道があります⛩️

石上神宮『境内由緒書』『石上神宮公式サイト』『Wikipedia』より

祭神
(主祭神)布都御魂大神
(副祀神)布留御魂大神、布都斯魂大神、宇摩志麻治命、五十瓊敷命、白河天皇、市川臣命

公式サイトによれば、創建は崇神天皇7年(3世紀)、布都御魂大神を祭神とし、「石上大神」と称して、現在の地である石上布留の高庭に祀られたのが始まりとされる。また、武門の棟梁物部氏の総氏神として古代信仰の中でも特に異彩を放っていたと云われる。平安時代後期、白河天皇が宮中の神嘉殿を寄進して現在の本殿を造営したと云う。

中世、興福寺の勢力が強くなると布留川を挟んで度々争いを繰り返した。戦国時代に至ると織田信長の軍勢が境内に乱入して社殿を破脚、神領も没収して衰退するも氏人の尽力により、江戸時代を乗り切った。明治4年(1871年)に官弊大社に列し、明治7年(1874年)に菅政友宮司が禁足地の発掘を行い、明治16年(1883年)に神宮号を復し、大正2年(1913年)に本殿を再建して現在に至る。

境内にある拝殿・摂社出雲建雄神社拝殿が国宝、楼門が国指定重要文化財、鏡池とワタカ・石上神宮社叢が奈良県指定天然記念物に指定されています。

参道⛩️

鳥居⛩️

境内(鳥居から望む)⛩️


柿本人麿の歌碑⛩️

鳥居を抜けて左側にありますニコニコ

手水鉢⛩️

境内案内板⛩️

手水鉢前の休憩所に掲げられていますニコニコ


鏡池(ワタカは奈良県指定天然記念物)⛩️

公式サイトによれば、鏡池は、江戸時代の絵図にも描かれており、古くは「石上池」と呼ばれていた。ワタカは大正3年(1914年)に旧内山永久寺の本堂池から鏡池に移されたもので、この時に東大寺中門前の鏡池にも移されたと云われ、このワタカ(別名馬魚)については2つの伝承がある。

南北朝時代、後醍醐天皇が吉野へ御潜幸になる途中、内山永久寺の萱御所に入った。その時、天皇の後を追って赤松円心等の軍勢も石上神宮の辺りに到着し、軍馬が仕切りに嘶き、天皇の乗馬もこれに応じて嘶こうとしたところ、天皇の従者は円心等に悟られるのを憂い、乗馬の首を斬って本堂前の池に投げ入れた。その後、本堂池に草を食べる魚が住み着くようになり、人々はこれは乗馬の首が魚になったのだと考え、「馬魚」と呼ばれるようになったと云われる。

もう1つは、南北朝時代、後醍醐天皇は都を落ち延び、笠置から吉野へお忍びで山坂を越え、ようやく内山永久寺にたどり着いた。後醍醐天皇も乗馬もほっとしたのも束の間、突然、乗馬が力尽きて倒れてしまった。天皇は倒れた馬を介抱して一生懸命助けようとする。「おい、しっかりしておくれ。元気を出しておくれ。私のためによくここまで頑張ってくれたのに」と鬣を撫でて励ますが為す術なく、馬は細い声で天皇に返した。「陛下、私は吉野までお供しとうございました。しかし、私にはもうその力がございません。吉野まで行けないのが残念で、死んでも死にきれません。私はこの池に入って魚になり、陛下のお側については参れませんが、道中の御無事を祈り続けております。先立つ罪をお許しください」と最後の言葉を残して馬は息絶えた。その後、馬の霊が魚に憑いたのか、魚の顔が馬の顔となり、草を食べる魚と珍しがられた。その魚が天皇の無事を祈り続けて守ったのか、天皇は筒がなく旅を続け、無事吉野へ着いたと云われる。

休憩所の右側にありますニコニコ


放し飼いされている鶏⛩️

自由奔放に境内を歩き回っていますニコニコ

※鶏の苦手な方は注意してください。

社務所・参集殿⛩️

楼門(国指定重要文化財)⛩️

公式サイトによれば、文保2年(1318年)に造営。古くは鐘楼門として上層に鐘を吊るしていたが、明治時代の神仏分離令により鐘のみ売却されたと云う。(写真映りが悪く見えていませんが)正面に掲げられている「萬古猶新」の字は山縣有朋の筆と云われる。

廻廊⛩️

公式サイトによれば、造営時期は不詳ながら、元亀元年(1570年)に修理した記録があるため、室町時代にはすでに造営されていたと推察されている。現在の廻廊は昭和7年(1932年)に再建されたものだと云われる。

②に続きますニコニコ