救馬渓観音①(山門~烏樞瑟摩明王、上富田町生馬) | ゆきまるのブログ

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風の吹くままに身を漂わせてふわふわふわふわ…「紀伊続風土記」を片手に和歌山県内の神社仏閣を巡る歴史好きの他愛の無いブログです(´・ω・`)

おはようございます(´・ω・`)

昨日の続きです(*'∀`*)v

千光寺から田辺市の国道42号まで戻り、田鶴交差点を右(南)に曲がり、道なりに行き、上富田町の朝来駅南交差点を左(東、朝来街道)に曲がり、救馬渓観音入口交差点を左(北)に曲がってひたすら道なりに行くと左側に救馬渓観音があります初詣2

救馬渓観音『救馬渓観音公式サイト』『境内由緒書』『紀伊続風土記』より

真言系単立の寺院。寺号は岩間寺。山号は瀧尾山。本尊は馬頭観世音菩薩(安阿彌快慶の作)。鳥羽上皇勅願所。小栗判官霊験所。紀州田辺藩主安藤家祈祷所。近西国三十三箇所観音霊場第十四番札所。

旧牟婁郡岩田郷生馬村の小名救馬谷にあり、江戸時代後期は寺格ではなく、「観音堂」と記され、境内は280間(約504メートル)。『紀伊続風土記』によれば、小堂2宇の1つとして記され、一文あり。「境内周二百八十間。小名救馬渓の山ノ上巌窟の中にあり」とだけ記されている。

公式サイト(『救馬渓観音略縁起』)によれば、飛鳥時代、役行者によって開かれ、天暦7年(953年)、空也上人が自ら刻んだ観音像を奉安し、後に熊野参詣を行幸した鳥羽上皇の勅願によって堂宇を建立して、瀧尾山岩間寺と名付けられた。時を経て、室町時代、足利持氏の軍勢に敗れて常陸国を追われた小栗小次郎助重(小栗判官)は仏門に帰依し、諸国を巡礼している最中に病にかかり、治療のため、妻の照手姫と紀州湯の峰温泉(現・田辺市本宮町)へ向かう途中で愛馬が病に冒され動けなくなってしまった。この時、救馬渓の霊験あらたかなる事を聞き、従者と共に参籠して祈願したところ、馬の病は忽ち全快。この事に感激した小栗判官と照手姫は、応永33年(1426年)に堂宇を再建し、「救馬渓観音」と名付けて中興の祖となった。江戸時代に至り、紀州藩付家老安藤家の祈祷所として、寛文4年(1664年)に本尊厨子の奉納、嘉永5年(1852年)に本堂の再建等の庇護を受けた。しかし、明治時代に入ると廃仏毀釈の煽りを受けて、一時無住となり荒廃したが、信者たちの尽力により再建されて現在に至る。

※天候・光の加減で、写真映りが少し悪いです。

御朱印初詣2



山門初詣2

永代燈初詣2

山門左脇に玉嶋弁財天が鎮座しています(*'∀`*)v






玉嶋弁財天社初詣2

山門を潜ると長い参道の先に瀧王神社が鎮座していますが(見忘れた…354354)、ここより東参道のほうへ回りました(*'∀`*)v

境内案内板初詣2

東参道駐車場内にあります(*'∀`*)v

その隅にあるトイレに…


烏樞瑟摩明王初詣2

まさか、トイレの仏さまがいるとは…ムンクの叫び

トイレで立ち止まってマジマジと眺めたのは初めてです(笑)

その奥にも女郎淵へ続く参道がありますが、立ち入り禁止になっています好

明日に続きます(*'∀`*)v