丹生神社(紀の川市上丹生谷) | ゆきまるのブログ

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風の吹くままに身を漂わせてふわふわふわふわ…「紀伊続風土記」を片手に和歌山県内の神社仏閣を巡る歴史好きの他愛の無いブログです(´・ω・`)

おはようございます(´・ω・`)

昨日の続きです(*'∀`*)v

志野神社から広域農道をひたすら東へ走り、県道122号と交わる交差点を左(北)に曲がり、道なりに行くと左側に公民館が見え、その裏に丹生(にゅう)神社があります初詣2


丹生神社『和歌山県神社庁公式サイト』『紀伊続風土記』より

祭神
(主祭神)丹生津比女尊、高野明神、気長足姫命、市岐島姫命
(配祀神)天照皇大神、天児屋根命、誉田別命、三筒男命、須佐之男命

合祀社    天照皇大神、春日神、多賀神、稲成神、八幡神、恵美須神、愛宕神、住吉神、摩利支神、荒神、熊野神、大神宮、總神

旧那賀郡粉河荘上丹生谷村の西に鎮座し、粉河荘2箇村(上丹生谷村・下丹生谷村)の産土神。江戸時代後期の社号は「丹生明神社」と記され、境内は周15町(約1.6キロ)。『紀伊続風土記』によれば、神宮寺の金山寺(天台宗、院号は光明院)があり、大日堂・護摩堂・鐘楼があったとされるが、天正の兵乱(織田信長の紀州攻め?)で焼失し、再建されず。

創建時期は不詳だが、「麓四社明神」「本山大神宮」とも称し、『天野社祝詞』(社伝では『丹生告門』)によれば、「還幸名手村丹生屋乃所夜殿太坐」とあり、丹生明神が天野に鎮座する以前に来た夜殿太坐が留まった地であり、地名の丹生屋はこれより起こり、天野に鎮座すると云えどもこの地にも丹生明神を祀ったことに始まると云う。四社明神と号して四坐の神と成すのは後世の事であり、古くは壮麗な社殿が備わっていたが、天正の兵乱により悉く焼失し、古文書や旧記等を全て失ったと伝わる。

しかし、延暦年間(782年~806年)、大伴孔子古の子船主(『粉河寺縁起絵巻』によれば、粉河寺別当職)が丹生明神をこの地より粉河寺の境内に勧請して一山の鎮守とし、本山大明神と称して奥の院とした。祭礼も粉河寺と同日であり、粉河寺の祭礼の時は丹生神社の神輿が粉河村に渡御したと云う。古くは大鳥居に勅額があったが天正の兵火で焼失し、現在の額は享保年間(1716年~1735年)に近衛家久(家照の子、関白・太政大臣)が奉納したものと伝わる。


鳥居初詣2


百度石初詣2


石灯籠初詣2

左右一対あります(*'∀`*)v


手水舎初詣2




社務所初詣2


神輿庫初詣2


庁舎初詣2


拝殿初詣2


本殿初詣2




合祀社初詣2




境内初詣2

境内は比較的広いです。駐車場はありませんが境内に置けます。社前の道は狭いので、交通の妨げになるので、歩いて行かれるほうが良いかと思います好

この後、さらに北へ向かいました(*'∀`*)v