昨日の続きです

橋本戎神社から国道24号を少しだけ東へ行き、2つ目の信号の右側に旧池永家住宅があります

旧住宅は現在、老朽化のため、移築解体中でこの地には無く、見た目は更地にして放置された空き地にしか見えません

なので、裏手にある船着き場へ行きました


旧池永家住宅『和歌山県公式ホームページ(わかやま文化財ガイド)』『紀伊続風土記』より
旧伊都郡相賀荘橋本町の大和街道に面したところに屋敷があり、江戸時代後期の当主は池永恵次郎(紀州藩六十人地士・命士)。家伝によれば、祖は新田義重の五子額田次郎経義で、上野国新田郷額田村に住み、代々鎌倉幕府に仕えた。元弘・建武の乱では、掃部助正忠・左馬助為綱らが新田義貞に従って戦功を立てた。明徳3年(1392年)、南北朝が和睦した後、右京亮勝忠は室町幕府3代将軍足利義満に仕え、末裔の縫殿助義種は河内守護畠山持国(満家の子)に属して河内国若江城に住した。以降は畠山氏に仕え、三郎左衛門義道は畠山政長(持富の子)、甚三郎道範は畠山卜山(尚順、政長の子)、甚三郎義正は畠山稙長(尚順の子)に仕えた。義正は廣城の戦いで城中にて自害。義正の子三郎左衛門(名は文字が崩れて読めず)は叔父池永孫三郎清徳の養子となり、畠山高政(政国の子)に仕えて紀伊国在田郡廣荘内(現・和歌山県有田郡広川町)に領地を得た。三郎左衛門の子五郎右衛門清信は湯川直春(亀山城主。直光の子)に仕え、天正13年(1585年)の紀州征伐で湯川家が没落すると廣荘柳瀬村(現・広川町柳瀬)に蟄居した。元和5年(1619年)、徳川頼宣が駿河から紀州へ移封されると柳瀬村にて地士(郷士)となり、代々相続した。後、伊都郡相賀荘橋本町へ移住し、姓を池永と改称し、恵次郎の代で命士を賜ったと云う。
池永家は江戸時代後期の時点ですでに本陣であった。紀州藩8代藩主徳川重倫が文化2年(1805年)に宿泊したのを始め、歴代藩主が来泊や休憩している。平成10年(1998年)、主屋・離座敷(藩主が宿泊)・表門・土蔵が国指定有形文化財に指定されています。

船着き場へは遊歩道から入って行きます


橋の下には使用済みのライターや花火が散乱

きちんと片付けましょう



通り抜けはできないようですが、船着き場までは普通に行けます


この先にあります






造りは近代的ですね

古風なイメージは微塵も感じさせません



階段は水中まで延びています


船着き場から対岸を撮りました

修理が済んでまた屋敷が再建されましたら、再訪したいと思います

駐車場はありませんので、交通の妨げにならない場所に置かれて歩いて行かれるほうがよろしいかと思います

この後、さらに東のほうへ向かいました
