たえちゃん ほら桜だよ 満開 一緒に見たかったね 「桜の季節には」なんて嘘 ついてごめんなさい


たえちゃんは知的障害を持った38歳の女性だった 知的障害ゆえ5歳児程度の知能しかないと診断されていたが でも私はボランティアでこの施設で入浴介助をしていて思うことがある たえちゃんは子供ではない 知能は5歳児程度かもしれないが時々 大人びた顔を見せるのである


一方 牧野さんの人生は過酷だった 脳性麻痺を抱えた牧野さんは3歳の頃に両親が離婚 母方の実家へ身を寄せるものの相次いで祖父母が他界 その後神経症の母親によって家の離れに隔離されてしまう 障害者を隠してしまう親御さんは案外と多いのだ 牧野さんは世間から忘れ去られ幼少期から思春期までを食事とテレビだけ与えられて過ごした ひょんなことから近隣の人間によって発見され牧野さんは14歳の時に救出された 押し寄せたテレビ局の人間を見てテレビの世界が本当に存在することを知って 大変に驚いたという


たえちゃんは 小学校から「とくべつ教室」で そのまま養護学校という ちょっと言葉は悪いが ありきたりというか よくあるパターンの人生だった ご両親に大変に愛されて育ち可もなく不可もなく育ってきた そしてこの施設に9年前にやって来た


救出されてから 牧野さんは猛勉強をして莫大な知識を得て「障害者のための社会づくり運動」にのめり込んでいくものの 何かが違うと感じ 団体を離れて 一人暮らしを始める インターネットでボランティアを募り最盛期には30人のボランティアが集まり牧野さんの自立生活を支えた しかし次第にボランティアの数も減り牧野さんは自立を諦め この施設にやって来た 牧野さんの口癖は「障害者も自立しなきゃダメ」だった


たえちゃんと牧野さんは生年月日が偶然にも同じで蠍座だった そしてこの施設で二人は「蠍座コンビ」と呼ばれていた


この施設は知的障害者と重度の身体障害者の生活を支えるための施設で 身体障害者のほとんどが脳性麻痺であった 牧野さんも脳性麻痺による全身麻痺で重度の身体障害者だった 誤解されがちだが脳性麻痺による身体障害者の脳は健常者と同じなのである 一般で言う正常なのだ 不自由なのは身体だけ 言葉を話せないので文字盤で会話をする


蠍座コンビは いつも一緒だった 二人を見ていると可笑しくてたまらないのである 車椅子からに降りると身体を引きずりながらゴロゴロと転がる牧野さんを見て たえちゃんは「ヤドカリオンナ」と笑い転げるのである 「そんなことを言ってはダメしゃない」と私が言うと「いいのよ気にしてないから」と牧野さんは言う こうして知的障害者と身体障害者は私には分からない何かで繋がっているようなのであった


あの日のことを思うと今でも辛い たえちゃんが牧野さんの入浴介助を手伝いたいと言う 知的障害者でもできることはなるべくさせるのが この施設の方針で 私は手伝ってもらうことにした 施設の入浴介助というのはバケツリレーのように身体障害者を どんどん洗っては湯船につけという流れ作業だ 知的障害者は自分で洗えるので楽なのだがアクティブなので事故も多い


私が牧野さんの身体を電動車椅子に乗せ「身体を洗ってあげて」と海綿をたえちゃんに渡すと「ガリガリオンナ」と言って牧野さんを罵り始める 牧野さんは機嫌が悪く 「この子あっちにやって」と何度も言う 「たえちゃん ありがとう もうお部屋に戻って」と私が言うと 「ヤダー」と言って聞かない 仕方がないので 牧野さんの電動車椅子を湯船につけた その時だった 再び「ガリガリオンナ」と笑い転げたたえちゃんが転倒し 水道の蛇口に頭を打ち凄い出血をした 興奮した牧野さんは真っ白な桜のような身体をブルブル震わせて湯船で痙攣していた 結局 たえちゃんは二針縫うこととなり私は始末書を書いた


しかし 蠍座コンビは時折 息がピッタリ合う日が月に1日ほどある 牧野さんが「枕」「座布団」「暑い」「痒い」と好き放題たえちゃんに命令する たえちゃんは献身的な母親 牧野さんはワガママな子供 といった感じで たえちゃんは言われるがままに従う 何も文句は言わない 普段は「自立 自立」と言っている牧野さんが完全に たえちゃんに依存しているところが可笑しかった しかしたえちゃんの機嫌がいつまでも良いわけではなく 機嫌が悪くなってくると猛烈な牧野さんイジメが始まるのである 「ヤドカリオンナ」「ガリガリオンナ」 でも牧野さんは私に “クルクルパー” とやって見せて笑うのだった しかし たえちゃんはクルクルパーというのが差別されたと感じ取り ますます牧野さんイジメはエスカレートする 知的障害者でも意味は理解できなくとも差別意識は感じ取ってしまうのである 


秋も深まる11月に入る頃 ぽっちゃりだった たえちゃんが食欲はあるのだが みるみる痩せていった 情緒不安定になりイライラしがちで爪を噛むようになった 夜中にスタッフに暴力をふるったりもした スタッフ会議で たえちゃんの異変が話題にあがり 少し早いが更年期障害かもしれないということで みんなでよく気をつけながら様子を見守ることとになった


ある日 牧野さんが「あの子 病気」と言う 「え そんなことを言ってなかったよ」と私が言うと 「お腹痛がってる でもココを出て行きたくないから隠してる」


そう ココはホスピスじゃない つまりココで亡くなる方はいないのだ 亡くなる時はみんな病院 ココを出たら二度と戻ることはない たえちゃんは経験的にそのことを知っているのだ


私は 急いでスタッフ会議を開き たえちゃんを病院へ連れて行くことになった たえちゃんにそのことを告げると たえちゃんは激しく拒絶したが よほどお腹が痛いのか たえちゃんはとうとう観念した 


レントゲン撮影の結果 たえちゃんは肝臓ガン ステージ5 つまり末期 医師は平然と「もって2、3ヶ月ですよ」と たえちゃんの前で余命宣告をするのである 驚いた私が「待ってください そんな いきなり本人に余命を宣告するのは残酷です」と言うと 「ああ 申し訳ない知的障害者と聞いていたから」とその医師は苦笑いをした なんていう差別意識だろうと激しい怒りが湧いた 落ち着け 私も福祉従事者だ 大人な態度を取るのだ と言い聞かせ 「彼女は立派な成人女性です そういう差別意識は医師として恥ずべきことだと思います 失礼します」 たえちゃんはキョロキョロしている 私はやりきれない気持ちでたえちゃんと病院を後にした


翌日 急いで たえちゃんの受け入れ先の病院をスタッフ総出で探した 末期ガンの知的障害者を受け入れてくれる病院は本当に少ないのだ どこも24時間の付き添いが絶対条件だった スタッフは付き添えない そういう決まりなのだ 結局 たえちゃんの母親が24時間の付き添いを条件に受け入れてくれる病院が見つかった それから慌ただしく入院の準備に取り掛かり たえちゃんには内緒で事は進んだ たえちゃんにはあくまで戻ってくることを大前提に入院の説明をした もう戻ってはこないのだけれど、、、


入院(退所日)当日 たえちゃんはたくさんのスタッフや利用者さんに見送られた 泣きながら何度も振り返るたえちゃんはスタッフに引きずられ車に乗った 私は「お見舞いに行くからね」と手を振った 牧野さんは隣で「蠍座コンビは永遠よ」と言った


スタッフ全員で入れ替わりで たえちゃんのお見舞いに行った 1月の初め頃 私が「今度 たえちゃんのお見舞いに行くの」と牧野さんに言うと 「私も行きたい! 連れて行って」と言うので 5名のスタッフと共に 私と牧野さんはたえちゃんのお見舞いに行った 病院の入り口で牧野さんは深いため息をついた 「あの子が私より先に死ぬなんてね 信じられないわ」と 


私たちが病室に入ると たえちゃんは目を光らせた 「ワタシ カエレルノネ?」 私は言葉に詰まった なんと素朴な質問だろう あまりの素朴さに私は答えることができなかった すると牧野さんが気を利かせて文字盤に「桜」と打った 桜 桜の季節かと思い 私が「まだ無理なんだけれど そうね、、、桜の季節にはね」と言うと 「ホント? サクラ ミニイコウヨ」とたえちゃんが笑うので 牧野さんは「そうね3人でね」と言った


その時 頭の中が満開の桜でいっばいになった 私たちはあの時 確かに同じ桜を見ていたんだと思う


2月のひどく寒い日 たえちゃんは亡くなった 訃報を受け葬儀に行くことを牧野さんに言うと 「私も行く!私も行く!」と言って聞かないので 大急ぎでスタッフを手配し 葬儀に行った 私と牧野さんは一緒に お焼香をした たえちゃんの遺体はとても綺麗で たえちゃんは笑っているように見えた たえちゃんのお母様が「最期まで 桜の季節にはって言っていました ありがとうございました」と言った 私は「何もできず申し訳ありませんでした」と謝った 牧野さんは黙ってたえちゃんを見つめ何か話しているように見えた 私はその時 激しい嫉妬を覚えた 二人には私には分からない「障害」という絆で繋がっている そのことが急に悔しくなった




満開の桜を見上げると うっすらと紅い花びらの奥が 薄い血管のようだった ずっと見つめていると なんだか目眩がしてきて 私はその場にしゃがみ込んだ 「大丈夫ですか?」と声をかけられ 顔を上げると 真っ白なスウェットの上下に白い靴 靴下まで白い とにかく全身白い男性が立っていた 「さっきから見ていて 大丈夫かなって」と男が言った 「なんだか満開の桜を見ていたら目眩がしてしまって」 「分かります 分かります あちらで美味しい紅茶を淹れますから少し休んで行かれませんか?」と自分のカウチを指差した 私はお言葉に甘え少し休ませてもらった 本当に歩けそうになかったのだ


男性の顔はとても端正だった いや これはなんの誇張でもなく本当に端正だったのだ 彼の淹れた紅茶は温かくてとても美味しかった 気持ちがシンとしてきて落ち着いた 「ずっと見ていたんですか? いつから?」と私が聞くと 「3日前からです ええ まあ 好きなんです桜が 桜オタク? とでも言いましょうか 変な意味ではないですよ でも そういうあなたも こんな早朝から桜見物するのだから 相当のオタクですよ」と彼は微笑んだ 私の周りは多くが障害者なので こんなに流暢な日本語を話す方とは久しぶりに出会った気がした 「午前中に入浴介助があるんです 福祉施設で働いていて 知的障害者と身体障害者のための施設なんです」「そうなんですか あそこに しだれ桜があるでしょう? あれは桜としては奇形なんです 本来は上に上に向かって伸びるという機能が桜には備わっていますが しだれ桜にはそれがないのです だから下に向かって伸びる 奇形なんです 現在では しだれ桜は好まれ あえて しだれ桜にするために品種改良が行われています」「まるで障害者ですね どうしてその本来の機能がないのでしょうか? しだれ桜は上に伸びたいのでしょうか?」「分かりません でも自然はあるがままですから」 あるがままと言われ ふいに たえちゃんの顔が浮かんだ たえちゃんは いつも あるがままだった 


「僕は海外に桜を植樹するのが仕事です 植樹といっても海外に植えて終わりではないんですよ この淡いピンク色の花をつける桜は日本では当たり前ですが これは日本の気候や風土が生み出した色なんです これを海外で再現するのは実に難しい 桜の要は土です 次に水 この条件が揃わないと花をつけない桜になってしまうのです だから適当に植樹をすると 海外で残念がられる」「へえ いろいろと難しいのですね」「そうですね だから 先日も植樹が決まった国がありまして 事前に土壌と水の調査をしたんです そしたら いけそうだったんで良かったです でも濃いピンク色の花しかつけないと思います それは仕方ないんです」 双眼鏡でしきりに桜を見ている彼  「でも あなたはラッキーだ 今日は本当に凄い 今日が桜のクライマックスです 桜の散り際というのは本当に見事なんです 雨が降れば受粉の最高のタイミング だから雨が降ると桜は桜の意志で花を散らすんです 見てください まるで初夜を迎えた花嫁のようです あ すみません つい」 「いえ 気にしないでください」本当に好きなのだなと思った これが愛でるということかと納得した でも自分がラッキーだと言われ なんだか変な気持ちだった 「双眼鏡で覗いて見ますか?」と言われ 私は双眼鏡を受け取りそっと覗くと そこは真っ白な目の眩む世界だった


意識が吹っ飛んだ


ブワッと涙が溢れ出し もう堪えることができなかった 私は何度も嗚咽を漏らして 両手で顔を覆った 彼は黙って立ち去ってくれた 私は気づいた たえちゃんが死んでから一度も泣いていなかったことに わんわん泣いた 私は嘘をついたこになる たえちゃんの余命を知りながら「桜の季節には」と あれは正しかったのだろか? あれでよかったのだろうか? 突然 何もかも分からなくなった


「「弔い木」っていうんですよ 桜って 昔の人は 人が亡くなった場所に桜を植えて死者を弔っていたそうです」


彼はそれだけ言うと また 桜見物を始めた 私は立ち上がり何度も頭を下げ お礼を述べると山を下りた 弔い木 その言葉が何度も頭に去来し 私は颯爽と駆け出した