さて本日は 昨日書いたとおり マザーテレサに続き 聖女であり精神科医であるエリザベス・キューブラー・ロスの 興味深い晩年の生き様(死に様というのかな?)について考察したいと思う 昨日書いた マザーテレサが天に召されるまで抱えた「深い心の闇」と キューブラー・ロスの「晩年の心模様」が 非常に酷似しているところに注目してほしいのが今回の記事


 エリザベス・キューブラー・ロスは スイスのチューリッヒに 三つ子姉妹の長女として生まれる キューブラー・ロスの家庭は 熱心なカトリック信者で 父親は将来キューブラー・ロスを修道女にするつもりだった しかし彼女は迷うことなく医療従事者への道を進んだ 父親の反対を無理やり押し切り 医学部に入る 自らの学費を自身で捻出し 当初は専門学校を経て検査技師をしていた その後 1957年 31歳の時に チューリッヒ大学医学部を卒業 彼女は医学部での学生時代に知り合った アメリカ人留学生マニー・ロスと共に 1958年 学業をさらに続け また働き口を探すべくアメリカに渡った



エリザベス・キューブラー・ロス


 彼女が 自身の医療活動を始めようとした時 病院側の「死にかけている患者」に対する あまりにひどい態度に愕然とさせられる そこで 病気の患者をどう扱うべきなのか という一連の講義を始めた これが 1961年の「死と死ぬこと」についての講義につながっていく 1963年には コロラド大学で 精神科医の単位を取得 1965年からシカゴ大学医学部に移り 臨床的な研究を発展させた 現在でいう「ホスピス」の先駆者である


 キューブラー・ロスは精神科医として 世界で初めて 「死の受容プロセス」と呼ばれている「キューブラー・ロスモデル」を提唱している まさに死の間際にある患者とのかかわりや 悲哀の考察 悲哀の仕事についての先駆的な業績で知られている 以下がキューブラー・ロスモデルの内容だ 彼女が著書『死ぬ瞬間』の中で発表したもの しかし すべての患者が このような経過をたどるわけではない とも書いている

 でも この時点で「この法則は不完全だ」と断言しているようなものだと思うのは私だけだろうか? なんと普遍性のない非科学的理論だろう こんな破綻が見え見えの不毛なことに 必死で挑むのだから やはり彼女らは凡人ではないのかな? 少なくとも一般論で語るのは難しい二人だね


 さあ 本題に戻ろう

【死の受容プロセス(キューブラー・ロスモデル)】

第一段階(否認)
⇒自分が死ぬということは 嘘ではないのかと疑う段階

第二段階(怒り)
⇒なぜ自分が死ななければならないのか という怒りを周囲に向ける


第三段階(取引)
⇒なんとか死なずにすむように 取引をしようと試みる段階 何かにすがろうという心理状態である

第四段階(抑うつ)
⇒なにもできなくなる

第五段階(受容)
⇒最終的に自分が死に逝くことを受け入れる段階を指す


 と五段階に分かれているのだという これがキューブラー・ロスが 膨大な私財と莫大な時間を費やした臨床結果だった 私は完璧にではないが このプロセスは一部は的を得ていると思う よほど熱心に看取りに取り組まなければ 到底たどり着けない境地である それは全肯定してもいいと思うのだけど、、、にもかかわらず彼女は強い探究心で「死」に夢中になり いや夢中なんてもんじゃない 取り憑かれたように死(または死後の世界)に没頭し 闇へと突っ走るのである


【「あなたはヒトラーだ」 キューブラー・ロスはなぜ神に怒ったか?】

 テーマがタブーだ! と言われるかもしれないが 気にしない 常識を破ってこそ表現ができるってものだ

 BSドキュメンタリー 「最後のレッスン~キューブラー・ロス かく死せり~」 を見た 莫大な数の患者の死を看取り 先に書いた五段階の「死の受容過程」を提唱した精神科医 エリザベス・キューブラー・ロスの晩年を描いた番組だ よかったらご視聴ください

 http://youtu.be/Tp0eYiAOsZY

 キューブラー・ロスは68歳(1994年)に 対外的な活動を取りやめ アリゾナに移住した 翌年1995年に 脳卒中で半身不随となり 日常生活にも支障をきたすようになる 動画のインタビューは 彼女が75歳(2001年)のときにインタビューしたもの


◎動画のインタビューを文字に起こしてみまます

 
《 脳卒中の発作を起こしたとき 神に「あなたはヒトラーだ」と呼びかけた 「ヒトラー並だ」と言ったのに 神はただ笑ってた それでますます頭に来たわ 40年間も神に仕える仕事をしてきて やっと引退しようと思ったら 脳卒中で何にもできなくなってしまった 》 
(「最後のレッスン~キューブラー・ロス かく死せり~」26:42~)


 あんなにもたくさんの方の看取りをしてきたキューブラー・ロスでも 自分の死については 提唱し続けた「死の受容過程」が 彼女には適応していない部分があるように感じた つまり彼女の研究は矛盾があり 「失敗」と呼ぶのはあまりに失礼かもしれないが 晩年の豹変ぶりを見ると やはり不完全であったな と言わざるを得ない しかし 本人は死ぬのが楽しみだと語る それは本心からだったのだろうか? と凡人の私は思ってしまうのだが、、、



エリザベス・キューブラー・ロス


 キューブラー・ロスは 第二次大戦後にナチスの強制収容所を見て回り 


 「誰の心の中にも 必ずヒットラーが住んでいます それとともに マザーテレサも住んでいます」


 と キューブラー・ロスは考えが至ったそうです ここが非常に興味深い 私は前回 マザーテレサの「心の闇」についての記事を書いた キューブラー・ロスはマザーテレサに憧れていたのだろうか? やはり二人は私には知り得ない「霊的乾燥(信仰への絶望)」で繋がっていたのだと確信した 神への冒涜とも取れる二人の告白 キューブラー・ロスが「神はヒトラーだ」と叫ぶのは 尋常でない怨恨がこもっているからだ それはまさに 当時のマザーテレサの心境とほぼ同じであるというから驚く 

 このインタビューを視聴して キューブラー・ロスに失望したとか 逆に人間味を感じられたとか 色々と意見がある そこで 私も意見を述べてみようと思う

【キューブラー・ロスは 死を恐れていたから 神に怒ったのではない】

 まず重要なのは キューブラー・ロスは「死の受容過程」で挙げられていたような 第二段階(怒り) つまり死を「恐れる」タイプの人ではない なにしろ何千人もの人々の臨終に立ち会っているのである 自らの死を受容できないわけがない 彼女の怒りの根源は あくまで神に対するものであり 死に対するものではない 彼女はむしろ死を「楽しみ」にしていた人間であった それは 立花隆 著 『臨死体験』(文春文庫)やインタビューにおける彼女の言葉から明らかである


《 私はまだ生きている 不幸にも……不幸にも ね あなたたちに分かる? もう6年間 死にたいと思ってきたわ 6年よ (中略) 私にできるのは 早く死ねるよう祈ることだけ 》 (「最後のレッスン~キューブラー・ロス かく死せり~」28:37~)




 このインタビューが行われたのは2001年 キューブラー・ロスが半身不随になって6年目の年である 誤解のないように書きますが 半身不随になった直後だから自暴自棄になって「死にたい」と言っている という説はまったくの間違いで 脳卒中で倒れてからの6年のあいだ 彼女が考えに考えた抜いた末に やはり「死にたい」と祈ることしかできなかったのだと思う それほどに 死後の世界を切望し 現世に深く絶望していたことが理解できると思う(なお インタビューでも言っているが 彼女は敬虔なクリスチャンなので 自殺はできないのだ)




脳卒中により半身不随となった

エリザベス・キューブラー・ロス



 実は キューブラー・ロスは半身不随になる前から 「死は怖くない」という旨の発言をしている

……あるインタビューの終わりに


《 「じゃあ あなたは死ぬのが恐くないどころか 楽しみでしょう?」 と尋ねたら 彼女は顔全体を喜びに輝かせ ニッコリ笑って 「イエース! アイム エクスペクティング!(ええ、心待ちにしています)」 と大きな声で答えた 》 (『臨死体験〈上〉』より)


 なぜ彼女が「死を楽しみ」にしていたのかというと これにはキチンとした理由がある キューブラー・ロスには臨死体験があり それ以来 死への恐怖はまったく無くなったという 
動画の24:12以降で触れられるが キューブラー・ロスは死後の世界の研究に没頭していた時期がある  臨死体験を通して 死が恐くなくなる人は結構多いのだが 彼女もその一人だった だから「死を楽しみ」にしていたのだろう


 ここらへんの微妙な内容は専門外なので(死後の世界などの形而上学的なことは専門家に) ここまでにします




 要は 「死が怖くない」という考えは 彼女が長年の中で自分で獲得したものであり 半身不随になる前も後も 考えは変わっていないということだ ただ 半身不随になった後のほうが 「早く死にたい」という思いが強まっているように見える だからって彼女が 「死の受容過程の第一段階(否認) 第二段階(怒り)で留まったまま 最後の第五段階(受容)に至っていない」という批判は間違いである 確かに彼女は怒っていたが それは 決して死を受容できないからではないのだ

【キューブラー・ロスは「死に至る病」にかかった】

 では キューブラー・ロスは なぜ怒っているのか? 考察してみよう ここからは私見である


 彼女が怒っている理由は 一言でいってしまえば「死にたいのに 死ぬことができない」 これに尽きると思う まあ言い換えれば「死ぬことができず 何もできない状態」だ それはいわゆる「地獄」だったんだろうか? キューブラー・ロスは ナカナカ死なない自分に苛立ちを感じていただろうか? そんなの苦しすぎる ただただ介護される境遇と彼女の性格を熟慮すると おそらく耐えられないほどに辛かっただろうと思う

 この「死にたいのに 死ぬことができない状態」のことを キルケゴール(デンマークの哲学者で思想家)は 「死に至る病=絶望」という言葉で表現している 絶妙な日本語だなと思った 私は何故か鳥肌ではなく 全身が総毛立った 深い絶望は 神に仕えし者の通過儀礼なんだなのかもしれない そしてそこにはマザーテレサが陥った可能性がある「霊的乾燥(信仰への絶望)」との共通点や繋がるものが かなりあるはずなのだ。。。


セーレン・オービエ・キルケゴール



《 死が最大の危険であるとき 人は生を希う 彼が更に怖るべき危険を学び知るに至るとき 彼は死を希う 死が希望の対象となる程に危険が増大した場合 絶望とは死にうる希望さえも失われているそのことである 》 キケゴール『死に至る病』(岩波文庫))

 前述の通り、彼女はクリスチャンなので自殺はできない 命とは神から与えられたものなので 勝手に寿命を伸ばしたり縮めたりするのは禁じられているのだそうだ にもかかわらず彼女は「死にたい」と願っている これはまさしく「死にうる希望さえも失われている状態」といえるだろう これはマザーテレサが感じていた「神の不在感」と似ているのだろうか? 無宗教の私には分からない でも二人の絶望は 「道徳心」や「倫理観」 
「理性」などによって 自分自身の心の力で克服できるだろうに と私は冷徹かもしれないが思ってしまう その前に 私なら世界中の期待に背いてでも逃げ出すけれど、、、

 しかし そもそもなぜキューブラー・ロスは そんなに死にたいのだろうか? それを考えるヒントが彼女の晩年の言葉の中にある


《愛を受け入れるということに関して私は落第だった 自分を愛するなんてとんでもないと思うから あまり多くの愛を得られずにきた だから私は学ぶべきことになっているのよ 嫌でたまらないけど》 (「最後のレッスン~キューブラー・ロス かく死せり~」32:35~





 最終的に マザーテレサとキューブラー・ロスが 「看取り」という役割を通して到達した境地とはどんなものだろう? 誰もが気になるところだと思う


 私は 自己犠牲と博愛主義と看取りの正しい違いが分かっているか がポイントだと思う これは憶測だが あながち外れていないと思う というか記事を構成するうちに 私が納得してしまったのが以下のとおりなのである


≪自己犠牲と博愛は偽善である 自己犠牲は絶対に救済手段にはならないこと 自己犠牲は必ず自他共にを破滅させること 愛の裏側には憎悪が潜んでいること≫


 少なくとも この四つだけは 二人とも明確に痛感したことであるはずだ このことに気づくのに生涯を費やした この二人の聖女に悔いはないだろうか あるとすればなんであろう 想像が及ばないけれど 聞いてみる勇気もなかった もし遺言になってしまったら と思うと怖いから そんなの聞いたら一生もんになってしまうもの


 二人は なぜ自由に生きなかったのだろうか? いや もし二人が「輪廻」を超越(解脱)したならば 今頃はパラダイスだ! でもまあ実際の現実は 人間には身体という制限があるし 心にも限度がある だから思想信条の自由とかなんて人間には本来は無い


 尊厳死ってねインドでは通じないらしい インドには尊厳死自体の概念がないんだと 人間に尊厳なんか無いよ 醜い生き物だと私は思う  しかし 聖職者も私のような平々凡々な人間もアリンコもゴキブリも〝生命〟の前では「一切が平等」だと思った しかし キリスト教では 最後の審判で救われるのは「人間だけだ」と教えている 人間と他の生命をキッチリ区別する 尊厳があるのは人間だけだと。。。(私からすれば区別ではなく差別にしか見えませんが)


 マザー・テレサもキューブラー・ロスも神の存在を信じられてなくなった(断言して良いと思う) 二人は神に対し 激しく怒っていたと言わざるを得ない いくら神に仕えても仕えても 「何も答えない沈黙を決め込む神」に 二人は不信感を抱いたのではないかと推測する それは彼女らにとって とても辛いことだったと思う 一生ぶんの手痛い裏切りを感じてしまったのかもしれない 


 一般的に 何かに善意を向けて それが報われない場合 人間は善意を向けた対象に怒りを覚る それは神に仕えるクリスチャンとて例外ではないだろう しかし 善意が怒りに変わるのであれば それは「見返り」に裏打ちされた「悪意」であると私は思う 悪意から起こす言動は必ず自他ともに破壊する このことは私は経験的に知っている 「怒りから発せられたものは善意ではない」という真理は動かせない事実だ


 となると 二人は とんでもない〝偽善者〟になるのではないか? と私は思ってしまう そんな馬鹿な 世界一敬愛されたと言っても過言ではないマザーテレサが偽善者だったの??、、、


※少々 脱線します 自分でも畏れ多い発言であることは重々承知の上です しかし私は世の中の素朴な疑問を解き明かす努力は大切だと思います 疑問を持たない「無関心」が一番 怖いのです 少々 一部の方にはショックな書き方をしていますが 意図的に構成しています どんな罵詈雑言でも受け止める覚悟で書いているので どうぞ どんなご意見でもコメントしてください


 私は二人の「行い」のことを論じているのではなく 二人の「心」について論じている マザーテレサもキューブラー・ロスも 晩年まで葛藤し続けながら 懸命に死にゆく人々の声を聞いた それに何の意味があるのか? そんな途方もないことは 考えるだけ無駄である 意味など求めるから苦しくなるのだ 生きる意味さえ無いのだから あらゆる現象にいちいち意味など求めてたら 人間は生きてられないと思う 意味など問うことは愚かなことだ


 たくさんの人々の死を通して 二人は とてつもなく大きな矛盾に気づいてしまい「信仰心」と「道徳」と「倫理観」の三つの中で 激しい葛藤に苦しんだのかもしれない それでも生涯を「死の問題」を解き明かすことに二人は全力で捧げたと思うし 精一杯注いだ熱い情熱は 二人とも本物であったであろう


マザーテレサと(おそらく孤児)少女



晩年のエリザベス・キューブラー・ロス
と思われる写真


 さて 真の善行為とはなんだろう? と直球で聞かれたら 私は正直 言葉に詰まる 分からないのだ、、、二人の聖女が行った行為は 一般的には「善行為」と呼べるのかもしれない しかし 二人が心の奥で神を憎んでいたのなら それを「善」と呼べるか否かの是非を決めなくてはならない それはあまりにも複雑な倫理観のテーマなので 私にはよく理解できないけれど 過程はさておき 結果だけ見れば二人とも 実に大きな功績を残しているのだから 二人の過去の行いはすべて善行為であったと結論づけるのがベストアンサーだと思う




《「40年間も神に仕える仕事をしてきて やっと引退しようと思ったら 脳卒中で何にもできなくなってしまった」》

 というキューブラー・ロスの言葉が典型的だが 「40年間」の善意を 「脳卒中」という仇で返してきた(と彼女は思っている)神に対して 彼女は激しい怒りを覚えたに違いない 境遇は違えどそれはマザーテレサもそれに近い心境であったと思う

 もし マザーテレサとキューブラー・ロスが同じ時代に生き 親しき友として出会うことがあったなら 二人の心の闇は光に照らされたのだろうか? 深い孤独を分け合うことができたのだろうか? そうであってほしいと願うのは私のエゴかな






追記

 遠藤周作の 『沈黙』に出てくる主人公ロドリゴは いくら仕えても「沈黙」し続ける神に対し 不信感を抱いていました そんな彼を救ったのは「踏むがいい」というイエスの言葉でした(これが幻聴なのか 本当のイエスの言葉かは不明ですが) 神が「沈黙」し続ける限り クリスチャンとて神への不信感から逃れることはできない キルケゴールでさえ 「躓き(つまづき)」( つまずくこと  失敗 過失 あやまち) を防ぐことは 神にもできないと言っていました (2013年11月2日の記事参照)About these ads