昨日の夜、たまたま点けっ放しだったテレビを見てはじめて知ったこと。
それまで「前畑ガンバレ」の水泳選手の人との認識しか持ち合わせていなかった、前畑秀子さん(1914〜1995)。
日本で初めて、オリンピックで金メダルを獲った女性アスリートだったのですね。
和歌山で生まれ、紀の川で泳ぎに親しんだ彼女がすぐに頭角を現し、名古屋の女学校に編入して水泳を続けたこと。
そして日本代表として出場した1932年のロサンゼルス五輪で、トップと0.1秒差という成績で銀メダルを獲得したこと。
でもそれからベルリン五輪までの4年間。戦争に向かう時代を背景に、国威高揚のための「次こそは金」という激しいプレッシャーに押しつぶされそうななか、彼女は温水プールなどない時代に毎日20キロメートルを泳ぐという、超人的な努力を続けたこと。
そして、ベルリンでの表彰式で。彼女がずっと、下を向いて泣いていたこと。
嬉しかったというより、重圧から解放されてやっと安心できたのだそうです。
引退後水泳から一切身を引いた彼女が、あるきっかけで「泳ぐことが大好きな」かつての自分を思い出し、名古屋で水泳教室を開いたこと。
水泳教室での秀子先生はいつも笑顔を絶やさず、けっして声を荒げることがなかったといいます。
子供達に、かつての自分のような思いをさせたくないからと。
前畑秀子さんと、ユッコこと岡田有希子さん。
全く接点のなさそうなこの二人にはともに名古屋に縁があること、二人とも「トップを獲る」プレッシャーに苦しんだことという共通点がありました。
2年目のユッコさんは、レコードのセールスが少しづつ下がっていることを、おそらくとても気にしていたことでしょう。1年目にレコード大賞最優秀新人賞をはじめ賞レースでの圧勝が「事務所の力」だったことも、賢明な彼女は気づいていたのでしょう。
そんな彼女だから、「くちびるNetwork」がオリコンシングルチャートで1位になった際に〝1位が獲れて、嬉しいと言うよりも安心した〟との本音を吐露したのだと思います。
もしも、岡田有希子になる前の幼い佳代ちゃんが、名古屋の体操教室ではなく、秀子先生の水泳教室に通っていたとしたら。
そしてその後も、身近なひとにはできない悩みを相談できるような、つながりがあったとしたら。
秀子先生はユッコさんの手を強く握りしめてくれたかもしれない。そして、かつての自分のように苦しむ彼女に寄り添ってくれたかもしれない。
そうすれば、もしかしたら。
…そんな詮無きことを考えてしまった、師走の夜でした。
photo by yukikostarlight
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