いわき自由労働組合の桂さんの言葉を思い出す。

「首都圏のデモでよく『子どもを守ろう』って言うでしょ。
仮設住宅から原発に通うお父さんを守れなくて、子どもを守ることはできないと思うんだよね。」


2011年の3月、あれだけ騒がれた原発作業員。
作業員ヒーロー化ブームに乗った人たちは、乗ったことさえ忘れて電気ジャブジャブ生活を謳歌しているのだろうか。


いくら東電がちゃんとしてますと言ったところで、現場の下請け孫請けの作業員の待遇が悪ければ意味がない。

これがまさに原発の非人道的多重構造であって、労働者使い棄てシステム。

日給5000円台の作業員もいるという。
それで、危険で過酷な作業を強いられる。
東電は合理化の名の下に防護服を簡易化する。

やってられないし、手当が多い除染作業に流れるのは当然だ。
(ちなみに、除染は一時的に下がってもまた線量が戻るという不毛な作業であることは、実際の作業している人が一番実感しているところだろう。全くゼロになるわけではない。でも、やらないよりはマシ。やりきれない。)


営利目的の私企業に丸投げしようとしている国の姿勢は最悪だ。
すでに債務超過状態の東電は倒産。国有化して作業員の身分保障をすることが必要なのに、国の介入をどんどん手放そうとしている。

しかも、無理な計画を立てて、やる!と言い切り、そういうとこだけ東電を縛り、しわ寄せはすべて現場へいく。


私やあなたが原発に行かなくていいのは、自分たちがやんなきゃしょうがないと踏ん張っている人たちがいるからだ。

2014年2月2日の放送を見てほしい。


◆福島をずっと見ているTV「箭内さん原発へ行く」作業員が語ってくれたこと: http://youtu.be/LAD6hQuJNa0 @youtubeさんから
「自己責任」なんかじゃない。
そんなのは責任転嫁だ。
責任の所在は、加害者にある。


2011年の福島をずっと見ているTVを見て思った。


◆「出ていくのも残るのも恐い」若いお母さんの苦悩 福島南相馬市: http://youtu.be/3WBX-boLEok @youtubeさんから


福島第一原発から汚染水が100トン以上漏れて、地下水にも漏れていて。
福島の天気予報の後は「今日の放射線量」

東京にも放射能あるけど、毎年思い出したようにやるだけで、どんどん福島だけの問題にされていく。


東京にいると物凄い落差。
東京新聞くらいかな。せっせと今の原発の様子を報じているのは。

でも、福島県の約14万人の避難者のうち、首都圏には2万3千人が住んでいる。
強制避難の人もいれば、自主避難の人もいる。

◆参考:避難状況の分析
http://tokyopastpresent.wordpress.com/2013/04/23/%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E7%AC%AC%E4%B8%80%E5%8E%9F%E7%99%BA%E4%BA%8B%E6%95%85%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E7%9C%8C%E6%B0%91%E3%81%AE%E9%81%BF%E9%9B%A3%E8%80%85%E6%95%B0%E3%81%A8%E7%A6%8F/

私が本格的に動き出したのは、福島市内から山形県米沢市へ自主避難した母親たちと出会ったことがきっかけだった。

原発事故の被害者が声を張り上げなければならない状況は、おかしい。
彼女たちは自主避難に追い込まれたのだと、強く感じた。

文科省の原子力損害賠償紛争審査会でも、県民の声を聞かず、霞ヶ関で勝手に決めて、国は「避難の選択肢」を奪った。

避難の権利の実現のため、NGO、市民団体、弁護士団体が動いていたが、文科省も東電も一顧だにしなかった。

審査会で結論が出る前に、福島市内から横浜市へ避難した方が、東電本社で発した言葉を思い出す。

「東電の人たちは休日どうしているんですか?
福島の親たちは家の除染をしています。被ばくしながら。少しでも子どもたちの被ばくを減らしたくて。…東電の人たち、除染に来てくださいよ。」

2011年の冬のことだ。
この頃になると、東電本社の担当者も玄人顏で、ただその場をやり過ごしている感がありありとわかった。

なぜか、ドア付近には東電の制服を着た筋肉質の大男が立っていて、虚しくなった。警戒しなくてはいけないようなことを、自分たちがしているという自覚があるのだろう。

東電という企業、上層部には加害者意識も誠意もない(ついでに代理人にも)。
現場の社員、作業員も被害者だ。


母子避難した人同士、新しい土地でコミュニティをつくり、支え合っている人たちがいる。

母子避難に合流して、家族避難した人たちがいる。

福島で支え合いながら暮らしている人たちがいる。


それらの人たちを想う。


加害者である国も東電もずっと責任逃れをしている。
国策で進められた原発。
事故を隠蔽し続けた東電。

今は避難解除をして帰還を促し、帰還できるんだからもう補償や賠償を請求するなという。電気料金値上げを脅しに使って再稼働をしかける。

戻るも戻らないも「自己責任」というわけだ。
人のせいにして自分の責任を逃れるのが本当にうまい。

そして、それを支えているのが電力大量消費地の無関心だ。



「創造することは抵抗すること。抵抗することは創造すること。」
ナチズムに対するレジスタンス活動に参加し、第二次大戦後は外交官として世界人権宣言の起案にも関わったステファン・エセルの言葉だ。

この言葉を噛み締めたい。



東京都知事選は、候補者はとりあえずおいておいて、そのまわりの人の行動に疑問を持った。

脱原発派で一本化できたら、良かったと思う。
けれど、一本化できないからといって、これまで脱原発運動の先頭をきってきた人たちが「細川支持します」と表明し、支持を呼びかけたことは間違いだったと思う。

その前提として、ひとりひとりが声をあげてきた行動なのに「有名人頼み」な面があったことは反省する。

しかし、一本化できない時点で、仕方ない、それぞれガンバローとならなかった。
元首相の知名度に頼った、これまた「有名人頼み」になってしまった。


選挙に勝たなきゃ意味はない
という意見も理解できる。

原発止めるためにはなんでもするのが政治だ
という考えもあるだろう。

しかし、私が知る限り、細川支持していた人々は物凄く葛藤していた。
なぜなら、今まで細川や小泉がしてきた政治を批判してきた人たちだから。

その葛藤は正しいと思う。
以下の分析を見ても、脱原発以外は全然政策の違う二人だもの。
というか、たぶん根本が違う。
一本化はもとより無理な話だったのだ。

◆「脱原発」はほんとうに争点なのか――トリックアートとしての都知事選 ポリタス 「東京都知事選2014」を考える http://politas.jp/articles/57




「権力を持つ人になんとかしてもらう」のではなく「私たちがなんとかする」ことが未来を切り拓くと信じる。
チュニジア、フランス、スペイン、アラブの若者たちの巨大非暴力行動を見てみよう。

◆大ベストセラー、ステファン・エセル『怒れ!憤れ!』
映画 予告編http://www.youtube.com/watch?v=dPc4cFQPCmM&sns=tw


「日本の国民性的に、あんなの無理」っていうのは、たぶん違う。
そもそも、国民性ってなんぞや?

日本にも自由民権運動や大正デモクラシーがあった。

戦争の記憶が生々しい時期、国会を40万人で包囲して日米安保条約に反対したのも、学生運動も、写真でしか見たことないけど、確かにあった。



悶々としていたけれど、下記のコラムは看過できなかった。
で、東京新聞に投稿してみた。
おそらく採用されないので、ここに貼り付けます。ぺたぺた。

◆2月10日付 「筆洗」
東京新聞:米大リーグ・ドジャースのかつての名将、トミー・ラソーダさん…:社説・コラム(TOKYO Web) http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2014021002000100.html


◆投稿原稿


都知事選が終わった。もとより誰を支持しようと個人の自由だ。しかし、本紙2月10日付の「筆洗」は看過できない。

元首相について私が忘れていないのは原発を止めなかったことではなく、「積極支持したイラク戦争で10万人以上が殺されたこと、今でも劣化ウラン弾の被ばくによって子どもたちが白血病で苦しんでいること」「格差社会を作り出し貧者を死に追いやったこと」である。

今でも東京では路上生活やネット難民を余儀無くされ、人知れず亡くなる人がいる。福祉が削られれば、明日にも死にゆく人がいるのだ。それを軽視して「原発は命の問題」と叫ぶことは空虚だ。

原発は命に関わる問題だが、命の危機の最前線に立たされているのは原発作業員だ。彼らがそこにいる理由は、原発が格差・差別の上に成り立っているからだ。
福島で子ども時代を過ごした私はそれを猛烈に痛感している。

誰かを犠牲にすることを容認する政治に、原発をなくすことはできない。
必要なのは戦略や葛藤ではなく、私たちが真に望む社会のために行動することだ。

街頭インタビューでは「東京には原発はありませんから」という声もあった。
私は、その言葉の破壊力に打ちのめされそうになった。
東京の電気はどこでつくっていたの?今4号機に何かあったらどうするの?
…そして、凄まじい投票率の低さ。

他人任せではなく、私たちの手に政治を取り戻そう。
未来は私たちがつくる。
あきらめない限り終わりはない。

抵抗は始まったばかりだ。