早くも1月第2週。しかも今日はすでに火曜日。

元旦から能登大地震があり翌日には航空機事故

たまたま三が日は何の予定もしていなかったので

むしろテレビの前にジーっと居てるはずが

どこのチャンネルも同じニュースで すごい深刻で

いたたまれなさに 電源をオフにしてしまった・・・

 

 世の中は仕事始めであろう先週末に 孫たちにお年玉を渡しに会いに行き

寒空の中公園で幼稚園児二人と遊ぶこと1時間で

わたしの1か月分の運動量に達したみたい(苦笑)。

だから昨日まで ダラダラと筋肉痛のからだを無理やり動かしながら

家の中でこじんまりとすごしていたんだけれど

今日は 朝から一昨年からかかっていた外科に通院のため 久しぶりに早起き。

 

 ちょうど手術して一年が経ったので もう終了にしてほしいなぁ

と願いながら診察室へ。

なんとか先生に現状よくなりましたアピールして

では次回予約はなしで 調子悪くなったらきてくださいね ということに!!

 

 

 昨年末に歯科医通院が終わり なんとか外科も今日で終了予定。

あとは 年一の特定健診や年齢的に行政から通知のくるガン健診だけで

最後に残った通院機関は『精神科』のみだ。

これは まだまだ終わりが見えない。なにしろ通院歴だけでも

もう 23年目だから。

ピークだったのは 仕事を覚えて任されることが増え 業務量も増え

子どもが小学校から中学校に進級し 部活やら塾やら 役員も自治会も…。

とにかく 時間がないところに人間関係と経済力のなさ

将来への漠然とした不安 が重なりすぎだったように思う。

Y2K問題とか騒いだ割に職場ではあんまり影響がなく

でもその頃から通院してたので パニック障害にはすでになっていたんだねぇ。

朝 出勤すると 上司のメモが机においてあり

「これらの書類一式をもって いまから新幹線で名古屋の現場まで行ってください」

いやいやいや 昨日聞いてないし・・・今日も電話すら入らないし

現地に何時には着くようにって指示されていたので 余計に焦って

あの頃から 朝出勤するのが億劫になっていったのかな。

 

 それから5年後には めっちゃくちゃ病状が悪化し

休業補償をうけて休職した。

 はっきりとした病名もつけてもらえず 初めは「パニック障害」「不安障害」。

そのうち「職場不適応」「重度のうつ状態」

やがて「双極性障害」「強迫観念が強い」難のある性格だ

とか 真面目過ぎる性格だとか 几帳面で手抜きができないとか

ほめられてるのかけなされてるのか 出来が良いのか悪いのか。

それは 自分の中で「生きていていいのか 生きてる価値がないのか」に変換され

気持ちを言葉にすると「生きていたくない」に置き換えられるようになった。

 

 

 

 その言葉で一番傷つけたのは 我が子だった。

自分のことをおいて 死んでしまう気なのか? と度々泣きすがられた。

それに対して 何の反応もできなくて 無力な自分が情けなく

ますます 生きる価値があるのか? と自分を責めた。

その間に 末期ガンだった実弟が亡くなり 老親も二人共老人性うつに陥り

なんとか この二人のために残された自分が親孝行しなくては との思いで

躁と鬱を行ったり来たり。

我が子の前では 仮面がはずれてしまったりして

衝突も増え 自分が死んで弟に生きていてもらいたかったと何度も思った。

 

それでも。

ほとんど友達と思っていた人たちが離れ 自分も人間関係をリセットし

親と子以外話す相手もない状況下で

たった一人 私を見捨てずにいてくれた遠方に暮らす友人がいてくれた。

彼女のおかげで なんとか 1年に一度は遠くまで行けたり

おしゃれしようって思えたり 美容院に行こうって考えたり

自分の身体を傷めたらだめだよって 我が子同様異口同音に 言い続けてくれた。

ありがとう。ほんとうに。

 

 今年は 少しこれまでの23年と違くて

そろそろ社会復帰してみたいなって思ってる。

実際 孫たちに何か喜ぶことしてやりたくてもお金がないとか

自分にスキルをと思っても レッスン代もない。

それに 社会と隔絶した暮らしを そろそろ抜け出さないと

親の年齢も80代半ばに近づき「ちゃんとしなくちゃっ」って

自分自身 思い始めているんだよ。

いきなりは無理だと思うので 低空飛行でも毎朝ちゃんと起きて

パジャマを脱いで着替える。

まずは そこから始めようと思う。

 奇しくも今朝は通院のため早く起きて パパっと着替えて外出できた。

明日もやってみよう。国保の乳ガン健診の予約があるので多分できるww

 

 そーだよね できることから はじめちゃおうっと。