こんにちは!ゆきです😊


今日はお盆期間中によくあるだろうと思われるお墓参りとそれに伴う線香をあげることについて書きます。

宗教観や個人の価値観によっては、わたしの書く内容について不快に思う方もいるかもしれませんが、その点をご理解の上でこの先はお読みくださいね。


わたしは特に何かの宗教を信じておらず、わたしは無宗教です。

お盆期間中にお墓参りをする方もきっと多くいるでしょうが、わたしが考えるお墓参りや信教へのスタンスについて書きます。


わたしの親は臨済宗の仏教を信仰していますが、わたしは子どもの頃から宗教に興味がなく、お墓参りもお線香をあげることも好きではなかったので、自分からやることはありませんでした。

お墓の周りの雰囲気が苦手で、進んで近寄りたいと思うことが昔からなく、お線香の香りも咳き込む程度に苦手です。

それに、お墓に亡くなった人たちの骨があるだけで、そこにその人たちがいると思ったことがないので、お墓参りする理由がわたしの中にはないので、お墓参りもしません。自分が身体を脱いだときに、生前お墓参りに行っていた人たちは、死後はずっとお墓に居続けたいと思うのでしょうか。少なくとも、わたしはお墓に価値を置いていないですし、身体を脱いでもわたしは絶対にお墓にいたいと思わないので、好きなところに行く予定です。


中学生のときに曾祖母が亡くなったときに、親族が「お葬式を出すだけのお金を貯めていないなんて」と亡き曾祖母に対しての苦言を聞き、人は死ぬときもお金がかかるのかと思うと、悲しくなった記憶があります。曾祖母は98歳まで生き、脚の骨を折る90歳過ぎまで自分の身の回りのことを自分でやっていました。

長く生きることを目標にしている人が多いように思うのに、いざ親族の中で高齢者がいると「早く亡くなってくれないか」と邪険にする親族がいると、その矛盾に気持ち悪さを覚えます。


2年前に祖母が亡くなったときに、極楽浄土に行くには通行料がいくらか必要なんだと聞きました。極楽浄土という「パーク」に入園料があることに引くと共に、お葬式やお墓などいろんなことにお金がかかる宗教や今の社会システムに対して疑問を持ちました。

また、祖母が亡くなる前は、長生きする祖母に対していろいろ愚痴を言う親を見ていましたが、亡くなったら急に手のひら返しをして「供養しなきゃ」「生前はこうだった」と生きていたときとは反対の姿勢を取る親の姿に拒否反応が大きく、わたしの宗教への拒否感も大きくなりました。


わたしは人が何を信じようと自由だと考えているので、理解こそ出来なくても、相手はそうなんだと思うだけです。なので、お墓参りしたい人はすればいいし、したくない人はしなくていい、そう思うんです。お線香をあげたい人があげ、あげたくない人はあげなくていい。形より心が大事なのではないかと思うのです。

形だけやっても、相手を尊重する気持ちがなければ、平気で相手の気持ちを蔑ろにしますし、形がなくても、相手を尊重する気持ちがあれば、自分の想いも相手の想いも両方大事にできて、すてきな人間関係を作れるとわたしは思っています。


しかし、信教がある人の中には、自分の信じる宗教を相手に強要したり、相手にお墓参りやお線香をあげることを強要したりする人もいます。

何を信じるか、何を信じないかは各人にある当然の権利であり、侵されることも侵すこともできないものであるはずなのに、平気で人の権利を取り上げようとする人たちとは、わたしの価値観は合いません。


形だけやっておけば満足する人も、相手を自分の意のままにコントロールしたい人も、平気で相手の気持ちを無視する人も、そういう人たちとは距離を置いておきたいので、わたしはそのように過ごしています。


自分が心地よく生きていくために、少しずつ自分の現実を動かしていきます!


今回はここまで!読んでいただきありがとうございました♡