こんにちは!ゆきです😊

本記事は染井為人さんの作品「正体」の読書後の感想です。ネタバレ含みますので、ご注意くださいね!


この作品を読んで、考えることがたくさんありました。

この作品の題名も読み終わって沁みじみと、だからこの題名なのかと思いました。

さて、私がこの作品を読んで感じたことを挙げていきます。


人は他人の何を見てその人を見るのかを問う作品であり、そこには正義を振りかざす人たちや本当のところを何も知らないのにメディアが流すことや権威の言うことを信じる人たちへの批判をこの作品から私は感じとりました。


物語は、未成年で夫婦と乳児を殺害した罪で死刑判決を受けた鏑木慶介が脱獄したところから始まります。鏑木は何度も名前と見た目を変え、その度に出会う人たちを助けていきます。鏑木と関わっていく中で、彼を指名手配中の脱獄囚だと気づいても、自分の知っている彼がそれと結びつかず、戸惑ったり葛藤したりする姿も描かれています。彼に救われた人たちは、彼が人を殺めるような人には見えないと言いますが、メディアや権威側は彼を指名手配犯だとして追い、それらを信じる人たちは、彼や彼をかばう人たちをまともではないと自身の正義を振りかざします。

鏑木は自身の無罪を証明するために、事件現場にいた夫婦と同居していた中年女性を探すために転々とし(その道中で関わってきた人たちを成り行きではあるも助け)、その人が住む介護老人ホームで働き、自分の無実を語ってもらえないかと接触を図ります。

彼の人となりを直接見た人たちにとっては、彼は殺人犯ではなく、自分達を助けてくれた優しい人だったのです。


私は自分のことであっても、気づいていない価値観や考え方があると思っているので、自分の知らない自分がいると思っています。

私が今関わっている人たちのことを100%理解することは出来ないし、私の知らない姿だって当然あるでしょう。ただ、少なくとも自分の知っている範囲で、「この人はこういう人だと思っている」というのはあります。

だから、その人を直接知っているわけでもないのに、憶測や他人からの言葉でその人をジャッジするのは違うように思うのです。(時々自分もそういうことをしてしまうから、自戒を込めて書いてもいます)

メディアや権威、権力のある人たちが言うことを鵜呑みにして、大多数の側(いわゆるその時代の正義側)につく方が自分で何も考えなくていいので楽です。けれど、それは自分が大多数側にいるからこその安住なのではないかとも思うのです。


この作品では主人公が本当は無実だったというのはありますが、その人のことをどう思うかを語ることが出来るのは、少なくともその人と直接関わってきた人だけだと思うのです。憶測や先入観があると、その人のことを真っ直ぐ見ることは出来ません。人はどうしても自分にとって都合のいいように物事や人を見ようとしがちで、人は自分の見たいものしか見ようとしないように思います。

けれど、相手だって自分と同じ血の通った1人の人間で、その人がどんな人なのかをそのまま見ることが出来れば、互いに尊重し合えるから、温かい世の中になっていくのだろうなと思うわけです。


鏑木慶介のことをそのまま見た人と、見ようとした人と、権威におもねった人と正義に駆られた人と、いろんな人たちがいましたが、彼がこの作品では救われなかったのが胸を締め付けられるくらいに悲しく、彼が自由を取り戻して幸せになる姿を見たかったと心底思いました。


小説は主人公の死後、彼の無実を勝ち取るために彼に助けられた人たちが再審請求をして真実が白日のもととなって終わります。

一方、ドラマ版では主人公の設定に違いがあるものの、主人公は警察に射殺されず一命をとりとめ、彼に助けられた人たちが彼の無実を証明し、無事無罪判決され、涙を流して喜び合います。

ドラマ版では命を落とすことがなくて、よかったと安堵しました。


人が人を裁き、他人が他人の人生の決断(判決)を下すことに正直なところ疑問を持ってしまいます。自分の人生を決めるのは、他人ではなく自分であるはずなのに、介入してくるものがあるのがおかしいと私は思うのです。

そういう現実とエネルギーラインを繋ぐ予定は私はないので心配していませんが、自分のことを自分で決めるという本来自然のことができないのはおかしいなと思います。


今回はここまで。

とりとめのない感想でしたが、読んでいただきありがとうございました💓