こんにちは!ゆきです😊
舞台「正三角関係」を東京芸術劇場プレイハウスで観賞してきました😊
この記事では、「正三角関係」の個人的な感想を書きますので、観劇前の方はご注意くださいね。
今回「正三角関係」を見たいと思った理由はいくつかありますが、最も大きな理由が、「生の長澤まさみさんを見たい💓」でした(笑)
昔から結構長澤まさみさんが好きなので、いつか直接見てみたい!と15年くらい思ってました(我ながら長かったわ~lol)
それから、私は舞台鑑賞が好きなんです。
ライブは乗り切れないことが多いので苦笑、また行きたいとなかなか思わないのですが、舞台鑑賞はありがたいことにそんなに外れがなく、楽しんできました。
では、個人的な感想を書いていきます。
◇登場人物◇
・唐松富太郎:唐松家の長子、元花火師。父親殺しの容疑をかけられ裁判にかけられている
・唐松 威蕃:唐松家の次男、物理学者。ある数式を考えていることから、監視下にある。
・唐松 在良:唐松家の三男、教会の炊事係で神を信じている。純粋な心の持ち主で、富太郎を信じている。
・唐松 兵頭:三人の父親。花火師だが、酒と女に溺れ、どうしようもない人だと言われている。
・不知火弁護士:これまでどんな事件でも無罪を勝ち取ってきた敏腕?弁護士。ある思惑から富太郎を無罪にすることに尽力する。
・盟神探湯検事:唐松兵頭殺害事件の検事。自称弱虫だが、実は鋭い着眼点で事件の真相へ近づいていく
・番頭呉剛力:兵頭の下で働いており、幼いころの富太郎をお風呂に入れてあげていた。お調子者で平気で嘘を言う。
・神父:在良が働く教会の神父。
・生方莉奈:ある件をきっかけに富太郎の許嫁になる。
・ウワサスキー夫人:ロシア領事の妻。噂好きの婦人であることないことを噂する。機密事項もうっかり話してしまう。
・グルーシェニカ:花街の美人な女性。富太郎と兵頭が惚れた女性。/富太郎と兵頭が作ろうとしている花火の名前。
◇概要◇
父親殺しの容疑をかけられた富太郎が裁判にかけられ、真実を暴こうとする検事と、何としてでも無罪にしたい弁護士との裁判劇。
裁判の証人として富太郎の弟たちや呉剛力、ウワサスキー夫人、街の人などが出てきて各々から見た富太郎と兵頭について証言する。
しかし、時は第二次世界大戦真っ只中のため、空襲警報が鳴ると人々は身を寄せ合い、解除されるとまた日常に戻りを繰り返す。
そして…
◆感想◆
前情報なしに見たので、どの時代を舞台にしたのかわかるまで少し時間がかかりましたが、空襲警報で身体を寄せ合う姿を見て、第二次世界大戦中の日本を舞台にしたものだとわかりました。
そして、大浦天主堂という言葉が出てきたときに、これは1945年8月上旬の長崎が舞台だとわかりました。それがわかったときに、あ~、この演劇はハッピーエンドにはならないと直感しました。
印象的だったことの1つは、道具は使う人と目的により変わってしまうことで、この舞台で改めてそうだよねと感じました。
花火師だった富太郎は、戦争のために火薬を取り上げられ、花火師として活動できなくなりました。そして、杵を父親殺しの凶器に使ったと裁判で言われました。
検事は証人尋問で在良と下記のような会話を交わします。
盟「あなたは包丁をどう使いますか?」
在「僕は料理に使います。」
盟「それでは杵は?」
在「これも料理で使います」
盟「ほら、でもあなたのお兄さんは、そういうふうには使わなかった」
また、富太郎は最後まで一貫して人を喜ばすことができる花火を作ることを信念としていましたが、父親は花火師の魂とでも言える火薬をお金のために売ろうとしたり、役人たちは火薬を爆弾として使おうとしたり、威蕃は戦争を終わらせるために花火の構造を原子爆弾に応用しようと兄の知識を使おうとしたり・・・
それぞれ違う立場にあるから、考えることも違うわけですが、同じものであっても使い手の使い方によって、こうも変わってきてしまうのかと改めて感じたわけです。
富太郎たち3兄弟は子どもの頃、空に上がる花火を見て、それぞれが夢を見つけました。富太郎は花火師になることを、威蕃は物理学者になることを、在良は神に仕える者になることを。
幼いころの3人は、空を見上げてそれぞれの夢を見つけ嬉々としていました。しかし、この物語の終わりは、皮肉なことに光る空(原爆)を見上げて亡くなった弟たちや街の人たちを見つけた富太郎が失意とともに問うシーンで終わりました。
後半から原爆投下が絡むことを予期していました。わかっていたのに、あまりにも悲しくて涙しました。
富太郎の父親殺しの裁判を担当する裁判官が、自分の仕事が終わると、一市民としての存在になり「米軍を皆殺しだー」と言うシーンがあり、(確か)在良がそれに対して、そんなことを言う人が兄を裁くことに対して疑問を呈していました。
また威蕃は、悪意のない殺人は裁くことができないと言いました。
果たしてそうなのだろうか。
絶対的な正しさなんてどこにもない。
個人個人であれば国が異なっても、にらみ合うことがきっとなかったのに、主語が「国」になると、見ず知らずの人であっても平気で傷つけられることの不思議を、この演劇が訴えているようにも思いました。
いや、善悪の尺度で図ることにさえ、そもそも意味がないのかもしれない。
何をするのも本来的には自由なのだから。
だから、争いが嫌ならばその場所からそっと離れればいいのではないかと思うのです。
今の社会情勢を見ていると、様々なところに火種が用意され、いつ火をつけるのかを見ている人がいるのではないでしょうか。
主語を国にしてしまうと、攻め込まれるのではと脅威を感じる人が多いのかもしれませんが、国は単なる概念でしかなく、一人ひとりが個人レベルで考えたときに、争いを進んでやりたい人ばかりではないと思うのです。
進んでやりたい人はやればいいし、やりたくない人や興味のない人はそっと離れればそれでいいじゃないかと。
争いの悲惨さを訴えて再発防止を考えることも一案ですが、そもそも争いは何が目的なのかが分かれば、あきれてしまってどうでもいいやとなると思うんです。
被害者の立場を取り続ける限り、そこから抜け出すことはできない。
事実としてはそうであっても、その事実をどう捉え、これからに活かせるかで、行動の仕方が変わると思うのです。
わたしは被害者の立場を取りたくはないですし、同じ土俵に乗るつもりもありません。
ちゃんと明めて、冷静に物事を見て行動しようと改めて思ったのでした。
舞台の感想というよりは、個人的な思いを書いた記事になりましたが、ここまで読んでいただきありがとうございました💓
それではまた👋