こんにちは😊ゆきです!

映画『正欲』を観てきました。

原作小説を約2年前に読んでいたので、今年の頭から気になっていた作品でした。

新垣結衣さんがこの映画に出演すると知って、これまでの彼女の演じてきた役とは随分方向性が異なるので、どう演じているのかも気になっていましたが、控えめに言ってもとても素敵な演技で、彼女の新しい顔を見られた作品でした。

原作小説そのものが問題作か傑作かと言われるだけあり、おそらく映画の視聴者にも強烈な印象を与えることは想像に難くないのですが、私はこの作品が好きです。好きが適当な言葉ではないかもしれないけれど、誰にも何かを押し付けない描き方がいいなと思いました。
以下映画の感想ですが、あらすじは割愛します。
少し堅めの書き方ですが悪しからずウインク

★主要登場人物★
寺井啓喜(稲垣吾郎さん)
検事。自分の正義を他人に押し付ける傾向がある。小4の子どもが登校拒否しており、子どものことで度々妻と衝突している。
桐生夏月(新垣結衣さん)
商業施設の家具店の店員。水が好きだが、その嗜好は佐々木以外の他人には理解されないと思っている。
佐々木佳道(磯村勇斗さん)
夏月の中学時代の同級生。会社でパワハラを受け、福山に戻ってきた。中学の時の同級生の結婚式で夏月と再会。水が好きで、夏月はその嗜好を分かち合えた唯一の人間。明日が来るのが辛いと思っている。
諸橋大也(佐藤寛太さん)
大学生。ダンスサークルに所属。Mr.コンテスト準グランプリと目立つが、周りと馴染もうとしない。水が好き。
神戸八重子(東野絢香さん)
大也と同じ大学の商学部の学生。男性恐怖症。学祭実行委員でダンス部とのコラボで大也と知り合う。


★感想★
多様性」という言葉は近年注目され、その言葉の意味は一見すると、とても寛容に聞こえるが、果たしてその言葉の意味を理解することとその現実を受け入れる(見る)ことは同じことなのだろうか。

多様性」という耳触りのいい言葉で、何かに括られる少数派は、果たして多数派を始めとする多くの者に受け入れられたいなんて思っているのだろうか。変に注目され「あなたのことは分かろうとしているよ」と理解された風にされるよりも、できることなら放っておいてほしい、これが本音ではないだろうか。
受け入れられなければこの世界に居場所がないかのような強迫観念的なものに「多様性」が使われているように思えてならない。

理解しようとすることには2種類あるのではないかと私は思う。
1つは自己満足的な押し付けによる相手を理解したいという態度。そこには相手への敬意ではなく、自己満足的な欲求による気持ちがあるのではないか。相手の気持ちは置いてきぼりで、自分の欲求のままに行われることに見える。
もう1つは、相手のことを完全には理解出来ないかもしれないことを分かりつつも、自分にとって大切な相手を尊重して寄り添おうとする姿勢。
前者は偽善であり傲慢にも思えるのは気のせいだろうか。

大也が八重子に放った言葉は、八重子の思い上がりにも似た感情を本人に自覚させるものであった。彼は放っておいてほしいのに、周りからは歩み寄ってくれる人が必要だと勝手に思われ、理解者だと名乗りをあげる者がいることに辟易していたのだ。
どうして少数派はいつも多数派に理解される側なのか。理解する方が上のような傲慢さがそこにはあるのではないか。「普通」でないことはおかしいことなのか。そもそも「普通」とはなんなのか。人それぞれ生きてきた道のりが違うのに、それぞれの事情をまるで無視するかのようにステレオタイプにあてはめようとする。これは一種の暴力のように思える。

わたしが仲良くしている友人の多くは幸いなことにそのような言動をしないので、わたしはとても恵まれている。
それこそ皮肉だが、「多様性」のおかげなのかもしれない。
少し前なら30を過ぎて結婚していないというだけで、行き遅れと思われたり性格に難があると思われたりして、普通ではない人と括られていただろう。本人が気にしていないのに、周りが勝手に多くの人と違うからという理由で、自分ではない人を下に見て、自分はそうではないから幸せだと安心する材料にするのかもしれない。
私は30を超えて独身なので、「結婚してこそ一人前」とか「結婚することが幸せ」とか「結婚してない人は変わり者」という価値観の人からすると格好の餌食なのかもしれない。結婚しているかどうかなんて、本人の自由意思があることを忘れているのかしら🤔。

そして、私が感じたことは、多様性とは理解することではないのではないか、ということ。
例え理解できないことであっても、否定せずに見ること、受け入れることではないだろうか。
理解しようとすることは出来ても、自分ではない誰かを100%理解することは出来ないし、理解できると思うことそのものが傲慢なことではないだろうか。完全には理解できないからこそ、お互いを大事に思い尊重し合えるのではないかと私は思い至った。理解できないことは悪いことではない。理解できなくても、寄り添おうとすることは出来るのではないか。

夏月と佳道はそういう寄り添うことが出来ていて、周りからしたら歪かもしれない関係に見えても、お互いがお互いを思い合っていた。佳道が容疑をかけられ夏月の元からいなくなってしまっても、夏月は佳道に「いなくならないから」と伝えようとしていた。夏月はそれを普通のことだと言ったが、寺井は信じられないという気持ちと羨望の気持ちを持ったのではないだろうか。

それから、冤罪がどのように作られるのかの一端を垣間見た気がした。多数派は果たして正しいのだろうか、そんなことをいろんな場面で感じた作品だった。

以上です照れ
また思うことがあれば追記しますが、ここまで読んでいただきありがとうございましたおねがい
あなたが感じたことがあれば、ぜひコメントしてください🎵