Hola! Soy Yuki. Presentare Coco.
(こんにちは! ゆきです。ココを紹介します。)
今回は「リメンバー・ミー」の感想です。
※英語タイトルは、リメンバーミーではなく、ココです😌
映画公開当時、個人的に好きな世界観の作品だったので、2回も見に行ってしまった映画です。
舞台はメキシコの死者の日の出来事です。なので、ちょこっとスペイン語であいさつしました🎵
以下、感想です。
・家族はお互いを縛るもの?否、尊重し認め合うものなんじゃない?
私は映画の冒頭から終盤まで割とこの家族を最後まで好きになれませんでした。
理由としては、家族だからという理由だけでミゲルの好きな音楽を家族そろってミゲルから取り上げようとしていたからです。
ミゲルの家では、音楽はご法度というルールがありました。
なんでも、ひいおばあちゃんのお父さんが家族を捨てて音楽を選んだからだとか。
それ以来代々音楽は家族を分かつものとしてこの家族では禁止されていました。
しかし、ミゲルは音楽が大好きです。
家族代々の靴職人よりも音楽をやりたい、そう思うことさえ許容しない家族たち。
そもそもルールってなんなんでしょうね。
そんなルールのせいでお互いがお互いを監視しあう、ルールが何のためにあるかではなく、決まりだから守る、で思考停止しているんです。
最終的に音楽がきっかけで、この家族に長年あった誤解が解け、ミゲルが音楽をやることを家族も応援する流れになっていますが、この家族がただルールを守っていただけだとしたら、きっと分裂していたのではないかなと思います。
家族とは言えども、究極は他人なので、「どうしてそう考えるのか」、「どうしてそうしたいのか」を話せるのなら話して、お互いを尊重し認め合うことをしていければ、平和なのになと思っています。
家族だから我慢しなきゃいけないの?そんなことはないはず。
誰かのために犠牲になっていい人なんて誰もいないはず。
年齢や役割が違ったとしても、一人一人が対等な存在のはずでしょう?
・物事は一面からではなく、多面的に見てこそ分かる。
この家族は、ミゲルのひいおばあちゃん(Coco)の母が夫のことを誤解したために、「音楽はご法度」というルールができた家族なんですね。
ミゲルが死者の世界に行って、ミゲルの先祖やヘクター、エルネスト・デラクルスに会い、真相を知ることが出来たため、死者の世界でもミゲルの先祖たちが持っていたヘクターへの誤解が解けました。
そして、現実世界にミゲルが戻った時に、Cocoにヘクターを思い出してもらうために歌を歌って、
Cocoがヘクターのことを思い出し、「パパはいつも私にこの歌を歌ってくれたの」と言い、ミゲルの家族たちもヘクターへの思いを改めるんですね。
物事は一方向からだとどうしても偏ってしまうし、その方向からだけでは見えないことや隠されていることもありますよね。
いろいろな方向から見てみて、はじめて全体像が見えてくると思うんです。
視野を広くとって、どちらかに偏ることなく物事を見られると、冷静でいられるし流されずにすむと思うですよね。
物事は見る角度や立場や役割によって、捉え方さえも変わります。
私は常に真ん中でいたいと思っているので、何かを見るときや考えるときには、俯瞰するように心がけています。
・好きなことをしてこそ輝く
ミゲルは気乗りせずに家業の靴職人修行をしているのですが、本当は音楽をしたくてうずうずしています。
人前で歌ったことがないと言ったミゲルに対してヘクターが、「でもお前は歌手なんだろう?」と言うんです。
それでミゲルは「自分が歌手だと思えば歌手なんだ」と思えて、初めて人前で歌うのに、とっても楽しそうに歌えるんです。
ミゲルを見ていると、好きなことをすることは自分を輝かせるんだなと思えるし、結局は、自分が自分をどうしたいかなんだなと思いました、
私も好きなことをして全力で楽しもう!と思いました!
・0or 100思考強めの映画
この映画の中で気分が悪くなるシーンがあります。
エルネスト・デラクルスが自分の栄光や名誉のために、かつての友を毒殺し、友の音楽を盗んで自分のものとして世間に発表したことが、デラクルスのライブ会場で観客に知れ渡った時に、その場にいた人のほとんどがデラクルスに対して態度を180度変えたんです。
ブーイングの嵐というと分かりやすいですかね。
そのあと彼がコテンパンにされた後、死者の世界でも鐘の下敷きになってしまい、その様子を見た人々は歓声を上げるんです。
このシーンにとても違和感を感じました。
善悪二元論的思考だと、ヘクターが善(3)、デラクルスが悪(6)になるのですが、善悪二元論だと分断しか生まないし、立場によって見え方も違うので、絶対的な善(悪)と言えるのかというと疑問が浮かびます。
俯瞰(9)で見たときに、どう見えるのか。
どちらかに肩入れしてしまうのではなく、冷静にみられるといいのかなと思うのです。
腸内環境は善玉菌と悪玉菌の比率がどうであるかによって変わってくるのですが、腸内にいる細菌のうち7割が日和見菌だと言われています。
日和見菌は善玉菌の比率の方が多ければそちらにつきますし、逆も然りです。
つまり、観客たちは日和見菌と同じで、形勢優位な方につくんです。
デラクルスは私個人としても好感を持てるキャラクターではないので、正直観客の気持ちも分からないでもないのですが、どうしてデラクルスはそういうことをしなければならなかったのか、
もしかしたら彼なりの「正義」や「理由」もあったのかもな…なんて思ったわけです。
※作中ではそのあたりの深堀はほとんどなかったな…
彼の終わり方が、何というか…製作者たちがデラクルスを小ばかにしているように思えてしまい、
彼に対しての愛を感じなかったんです。後味が悪いのはそのせいだったのかな。
勧善懲悪ものは誰かを英雄にしたり悪役にしたりして、一個人だけでは何もできない印象を観衆につけがちなので苦手です。
うまく言えないのですが、0 or 100 思考映画はそういう傾向があるような気がして、私は苦手です。
・音楽には力がある
音楽って楽しい気持ちになれることが多いなと思います。
もちろん曲調や歌詞、エネルギーにも拠りますが、私は楽しいときや楽しくなりたいときに歌を歌うことが多いです。
歌を歌っているとご機嫌さんでいられるんです。
そして、時に自分を慰めてくれたり元気づけてくれたりと、音楽は力を与えてくれるなと感じることもあります。
私が音楽を好きだからそう思うのかもしれません。
・余談① 死後の世界についての刷り込み?
この作品では死者の世界を描いており、死者の世界の住人は、生者の世界で自分の存在を知るものがいなくなると死者の世界でも存在が消えてしまうという設定なんです。ONE PIECE でもDr.ヒルルクが「人はいつ死ぬと思う?心臓を銃で撃ち抜かれた時…違う。不治の病に侵された時…違う。猛毒キノコのスープを飲んだ時…違う!!!人に忘れられた時さ…!!!」と言うんですね。
確かに人は自分の存在を知るものが消えたら、死ぬんだと私も思います。この点に関してはいいんです。
ただ、死者の世界でも分離した存在なのか???ということ。
私はワンネスがあると思っているので、身体を脱いだ後は、ワンネスに還るんだと思っています。ワンネスはすべては一つというところなので、今の物質世界のような分離状態ではなく、他者がそもそもいない(私=あなた、あなた=私)境のない世界なんです。
この映画では、つまるところ、現世で「善い行い」をしていけば、先祖代々語り継がれるし、消えないよ、と言っているようにも思えました。(この捉え方極端かな…)例えば、その「善い行い」は苦行だったり我慢を強いられたりするものかもしれません。それを受け入れるようにという刷り込みに思えなくもなかったので、ちょっと余談で書きました。
・余談② 年上や権力者が絶対という刷り込み?
年上の方に対して怠慢な態度で接してOKとは言っていません。
ただ、年上の人や権力者の言うことに倣う姿は、怯えているようで見ていていい気持ちがしませんでした。
ママ・イメルダ(Cocoの母)がその家族の家業を作り出したので、他の家族は彼女に対して頭が上がりません。
彼女の言うことは絶対!みたいな感じです。
言いたいことがあれば、「私はこう思います」って言えばいいのになと、見ていて少しイラっとしました(笑)
年上や権力者が恐いからと怯えると、それを見た権力者たちは、自分たちの言うことならなんでも聞くと思ってやりたい放題やります。死者の世界でもそんなよくわからないことが蔓延っていたので、現世でも嫌なのに、死んでもそれは変わらないのかと見ていてうんざりしました(笑)
対立するのではなくて、「私はあなたの●●には従いません。私はこう思います」と伝えられたら、自分自身を生きられるのになとちょっと思った私なのでした
以上です!
ここまで読んでいただきありがとうございました!
Thank you for reading my writings.
それでは、Adios!
ちなみに記事の写真は、今年の迎え火の時のです。田舎ではまだこの風習が残っています。