選べという。
けど、現状、主に負担をしていく現役世代(ロスジェネ以降)と円高による産業の空洞化に直面する企業に、現在の高福祉を維持するだけの高負担が不可能なのは、よほどのアホでなければ分かるでしょう。
実際は、選べないんですよ。
低福祉低負担しか。
福祉部分が、負担部分(つまり経済活動)を規定できるんじゃなく、負担可能部分(経済活動)に応じた福祉しか実現できないんです。
金のない国では、どれだけ文化的な最低限の生活と唱えようが、一日三食の粥すら満足に食えないんです。
生存権?
そんなもの、紙に描いた餅の方がまし。
紙に描いた餅なら、その紙で尻が拭ける。
ってなもんです。
何? 基本的人権は、生まれながらに持ってる権利だって大学で習ったって?
バカ発見!
とりあえず、なんで「バカ」っていわれなきゃならないのか、自覚できるまで世界史の勉強と、アフリカの国々を旅行してこい。
バブルが弾けて、団塊世代は何をしたかって言うと、労組を中心に「ロスジェネ世代を犠牲にして、ローンがある自分たちの生活を守った」わけだ。
なのに、なんでロスジェネ世代が、団塊世代の老後の豊かな生活まで保障しなきゃならんのだ?
その保障機構に対して、異議を唱える機会もなく。
「年金制度は破綻しない」とかいう、アホ経済評論家まで動員して。
年金の圧縮や、生活習慣病の治療に対する保険負担の大幅低減等々以外に、対処法はない。
で、円高であろうが、国内経済をガンガン回していって初めて、福祉を充実できるんです。
それによって、栄えた事例は歴史に散見できるけど、今日本がやっている方法で衰退した事例もありこそすれ、栄えた事例は皆無、ってことに、なんで国会議員は気づかんのだろ?
そういや、「実現したいこと」が第一で、「どうすればそれができるか」まで考えてる国会議員がいる、って気がまったくしないのな。政経塾出身者でも。