今までは、
日々起こることを、
単なる『出来事・事象』として見ていた。
単なる『出来事・事象』としてしか、
見えなかった。
起こった『出来事・事象』に対して、
対応してきた。
→いわゆる、ダミーの問題
いくら対応しても、根源的には解決しない。
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『出来事・事象』は、
自分にどういう思い込みや
囚われがあるのかを
知らせるためのもの。
『出来事・事象』を通して、
何か伝えたいメッセージ、
気づいて欲しい事がある。
自分にどういう思い込みや
囚われがあるのか。
どんなメッセージを
伝えようとしているのか。
それを紐解くヒントや手法を伝えることは
他人にもできる。
だが、
根本的には、
自分で向き合い解決する必要がある。
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ここで、
自分への愛が試される。
起こった『出来事・事象』に対して、
どんな思い込みや囚われがあるのか、
どんな気づきや
伝えたいメッセージがあるのか。
これを紐解く作業は、
自分で地道に
コツコツやっていくしかない。
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一度対応したから、
ハイおしまい!ではない。
残念なお知らせかもしれないが。
だが、
玉ねぎの皮を一枚一枚剥くように、
一つひとつの感情や
思い込みと向き合う度に、
自己理解も自己愛も深まってゆく。
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自分に還る。
だが、
ここを見たくないあまり、
ここが痛すぎるあまり、
人は人に当たり散らす、発散する。
ほぼ無意識。
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私もそうだった。
この世はマジで、
自分か、自分以外か。
他人は1ミリも関係がないとは、
こういうことか。
まわりにいるあの人も、
ちょっと嫌だなと感じるあの人も、
ちょっと目につくあの人もw
全て、
何かを伝えようとしてくれている、
メッセンジャー。
だから、
怖くない。
そして、
感情は怖いものではない。
過去に傷ついた記憶が疼くから、
痛いように感じるだけ。
その痛みに反応しているだけ。
痛みから目を背けずに、
幼い自分が感じた痛みに、
大人の自分が寄り添うことで、
痛みは癒える。
全ての『出来事・事象』は、
自分に還るためのお知らせでしかない。
怖がる必要はないのだ