言挙げせず国 | 心に光を呼びます Padme★yuki

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誰の心にも、神様とのホットラインはあります。
いろんなもので隠れてしまってるだけです。
私でよければ、見つけるお手伝いをします。




奈良の丹生川上神社下社
いままで3回くらい行ってますが
そのたびに宮司さん
(皆見元久さん)が
とても良いお話を聞かせてくれます。
本当に心が洗われます。
(私のことは覚えてないと思います)



いつも最初に
「祭神やご利益は、
ホームページを見てください」
と言います。
笑います。
そんなことはどうでもいい
ってかんじです(笑)
神は自然の中にいる。
と、話してくれます。
そして
「パワースポットという言葉を排除しました」
「イベントなどもしません。例祭だけです」
でも、
参拝する方が増えたという。

私は、天河神社へ向かう道すがら
下社の前を通って
「わー!!ここ!!行きたい!!」
と、なったのでした。
(存在を知らなかった)



宮司の皆見さんが
平成25年12月に書いた
社報 第八号より
宮司さんのお話を引用しながら
こちらで紹介したいと思います。


葦原の
瑞穂の国は
神ながら
言挙げせず国

(ことあげ)

万葉集の中の
日本独自の精神を伝える歌だそうです。

言挙げせず

この、
『言挙げ』+『せず』
とは
「言葉に出さない」
という意味です。

その意味を深く知ることが重要です。

『挙げる』という言葉は
「槍玉に挙げる」
「検挙する」
と使うように、
責めるようなかんじですね。

人には心があり、感情がある。
それを、言葉に出して
挙げて言うには無理が出るから
言挙げない。

現代の世相からみれば
そのようなことは
人に対してあきらめてしまって
気持ちを伝える努力がないように思われますが
それはまったく逆です。
人の感情を察し
人の心を感じて
お互い
言葉ではない精神部分を重んじながら
会話をすることを
古来の日本人は大切にしてきました。

『言挙げせず』とは
理論理屈で考えない
否定しない
規制しない
型にはめない
という意味も含むのです。

考え方が違っても
それはそれで
いいじゃないか。
距離を置いて和を保てば良いだけのこと。
言葉に出して言挙げれば
自分も傷つく。

理論や理屈では語り尽くせぬ人の心。
罪を犯してしまった者の
背景を見てみれば
その辛さに気づいてやれなかった
そこまで追い込んでしまった
私たちにも責任がある。
と、昔の人たちは
罪人をも愛で包んでいたのです。
罪を憎んで
人を憎まず
とは、そういうことです。

考え方が違うからといって
論破したところで
何も得るものはない。
(論破とは:自分とは違う考えや説を議論で破ること。言い負かすこと)
人の心の動きを察し
「言わなければわからない」
ではなく
「言わずとも察する」
人を思いやる心を
大事にしてきた国
日本。

現代社会では
規則にのっとり
個人が尊重され
主義主張を明確にすることが良いとされてきました。
でも、古来の日本では
規則のようなものを優先するのではなく
その人にとって
最良
と思う道へと
導くことが大事
としてきました。
(水戸黄門や大岡越前のドラマが国民的なのは
人情あふれる裁き方が好きなのでしょうね)


言葉に出さない
ということで
けがれ(気枯れ)てしまうのでは?
と思われるかもしれませんが
そうではありません。
本来
『けがれ』とは
決して、
見た目の汚れや
過去の過ちを問うものではないです。

元気
勇気
和気
陽気
というような
前向きで活動的な
『気』が枯れて、
やる気のない状態
を言います。


気枯れた人は
他者へ気を送れない。

人と関わることでさえ
拒絶してしまったりします。
また、
自分自身が悩みを多く抱えていると
「今、自分のことが大変で
他人のことまで構ってられない」
というように、
他者からの気を
受け取ることができません。

こうなると
言挙げしない日本では
会話がまったく成立しなくなります。
日本は、互いの『気』を
読みとる文化なのですから。

神様は
『気枯れ』た人を嫌い、
元気で朗らかな人を好む

と言われている一因もここにあります。
嫌いなわけじゃないんです。
気枯れてしまうと
神様からの
愛も
サインも
受け取れなくなるんです




『発祥致福』
時に流れがあることを忘れ
自我で流れを作ろうとしてきた時代がありました。
しかし、時の流れは
誰にも自由になりません。
その流れの中で
皆が多くのことを考える、
考えても仕方のない事ほど考えてしまいます。
しかし日本は、
時の流れにも神を感じる
『神ながら』の精神を生みました。
自己の我欲で流れを作るのではなく
物事の良し悪しに関わらず
その流れに
神の御心を感じ
感謝して受け入れる。
どんな時も精神的な姿勢を崩さず
流れにそって前向きに進むことの
大切さを説いた考えだと思います。

よく、下社になぜ参拝者が増えたのかと聞かれます。
着任して4年になります。
どんな時にも
神ながらの心をもって
ご神明奉仕をしてきたつもりです。
先代の宮司さまからは
事務的なことだけでなく
言葉ではない
丹生の大神様と向き合う心
を引き継ぎました。

日本には多くの神様がおられます。
全ての神々に
感謝の心で
手を合わせ
心を整え
神ながらの道を歩む。
下社を崇敬してくださる
多くの人々の真心に支えられて
白・黒の二頭の神馬を迎えられたことも
神の御心を感じ、感謝しています。
これからも
社報表紙の『発祥致福』の意味を
深く受けとめ
その水先案内人であり
人でありたいと思います。


(転載・引用 終了)


発祥致福とは?
おめでたいことを発して
福をまねきよせる

という意味。
笑う門には福来る
みたいなかんじですが
昔いた、
海老一染之助・染太郎の芸★のように
「おめでとうございます!」
と、陽気にふるまうことで
福を招き寄せる
という意味かな?

こちらの記事を参照してください。
★怒りの波動は、自分を壊す★
人間の身体の中も
お水がいっぱい。
空気中にも
お水がいっぱいです。
宇宙にだってあります。
良い言霊を発しましょう
というのは、
自分の周囲の水(気)を
良い波動にしておくことが大事。
ということでしょう。
ネガティブな思考は
身体を弱めます。
考え始めたら
なにか集中できることなどして
思考の切り替えをしましょう!

早く、余計なことを考えなくてすむ世界になるといいね~

だって
怒るべき時は
怒りますもの。
不動明王が怖い姿なのは、
大日如来の姿でやさしく諭しても
まったく聞く耳がない
道からはずれている者を
手に持ってる縄で縛ってでも
正道に戻そうとする
激しく怒っている姿だから。

十一面観音
頭の上の顔も
正面の三つの顔以外は
道を外れる者を叱咤し
激しく怒っている顔です。
後頭部の顔は
信心深いふり
善人のふりをしている人を見抜き
腹黒さを大笑いしている顔です。
暴悪大笑面↓


菩薩も
如来も
怒らないわけじゃない。
天使だって
悪には怒る。
(ふんずけてます↓)


神様は恐い★

言挙げたくはないけど
挙げざるをえない場合も
ありますよね。
挙げるべき!
な時も・・・
でも、なるべくそれは
神様におまかせして
言挙げせず
ゆるゆるとまいりましょう~
笑って過ごしましょう~