遡って、私達一族の出自を調べてみると、
昭和49年5月発刊の『〇〇市史・中巻』
に下記のように記されている。

天正8年(1580年)から、
島原の地を巡って、
竜造寺・島津 両氏の攻防が繰り返されていた。

その後、戦況は、刻一刻と竜造寺方に不利となり、その模様を源昌寺由緒では、次のように伝えている。


天正12年(1584年)3月24日
隆信公高木へ発向し、島津・有馬の両勢と合戦した。
その時、安富下野守純泰は、深江城を固く守っていた。

ところが、敗戦となり、御大将以下ことごとく戦死した。

そのことが、敵方より、矢文を持って次々に通告されたが、事実の程は不明であった。