昨日息子の担任の先生と電話でお話。






息子は、学校に行ったり行かなかったり。

基本は行くつもりではいるけど、朝になるとお腹や頭が痛くなって行けない日がたくさんある。





年間30日以上を欠席すると、

不登校と定義されるらしい。







それで言えば、既に息子は不登校状態。





世間で言えば、問題、という認識だろうし、

わたしも悪いと思っていないつもりだったけど、無意識に問題と思っていた。



というか、自分には無関係な話のような気がしていたんだろう。



だけど、息子を通して、

不登校について関心を持ち知るようになるにつれ、不登校を問題だとは思わなくなった。






学校に行くことが当たり前。

その常識、固定概念に大きな一石を投じてくれた。




いま、わたしは、

息子が学校に行っても行かなくても、

どちらでも良いと思っている。





決められたカリキュラムの枠組みの中の学びではなくても、どんな状況にあっても学びはあって、






どうして学校に行かないといけないんだろう?

どうして勉強しなければいけないんだろう?

どうして生まれてきたんだろう?

どうして世界があるんだろう?



常識、当たり前と言われているものに対して、

当たり前に歩むように敷かれているレールを前にして生まれた問い。




そこからいま学んでいるんだろう。





学校に行っても行かなくても、

勉強するでもしないでも何かを学んでいるし、

必要だと感じたときには必要なものを学んで行くことができると信頼している。




小中学生の不登校は12万人以上。

もっと増えていたり予備軍の子もいるだろう。



死ぬほど辛いなら逃げたら良いと言うけれど、逃げるまでのハードルはとても高い壁だ。


こどもは親を悲しませたくない。

先生に怒られたくない。

期待を裏切りたくない。

友達に嫌われたくない。



甘えだ弱さだという目が向けられる中で、

「死ぬほどでもない辛さ」の段階で逃げることは容易ではない。



何でもない顔をしながら限界まで耐えて、プツリと切れてしまう子もいるだろうと思った。




多かれ少なかれ、大人になるにつれて、自然に生まれる問いを、深く考えることもなく蓋をしてしまうことで、知らず知らず自分の心を殺して行っていることがあると思う。




明るい不登校でも良いじゃない。




生きづらさもあると思うけど、

生きていれば新たな可能性を見出していける。



彼自身の価値にはなんの関係もなく、

誰かの決めた枠組みの中で評価されることで、

価値が減っていくようなものでもない。

自分の生に疑問を持つ必要はない。



靴のサイズが合わなくて、自分に合うサイズの靴を探すことが自然なことのように、

窮屈な靴を履き続けたら足が傷ついてしまうように、目の前にある選択肢の1つがぴったりフィットしていない、それだけのこと。


 


ところ変われば、常識は変わる。

ここでの当たり前がどこかの非常識だったりもする。



葛藤や不安、苛立ちや怒り、焦り、

いろんな感情が生まれたけれど、

わたしの中にも、それってほんとうに?

どうしてだろう?という疑問が生まれ、

常識を超えて、新たな世界が広がった。



前よりもっと色んな人の痛みや喜びを知ることができた。共感できるようになった。

息子が見せてくれる世界は面白い。




若いお母さんだから、シングルマザーだから、どう思われるか、ダメな親だと思われる、という世間の目が怖かった。  




それはまだあるけど、手放すたびに軽くなり、

生まれてきてくれたこと、生きている1日1日を喜べた赤ちゃんの頃のように、

ただ息子の存在を純粋に喜べるようになり、

どんどん幸せになっている。





クラス担任で部活の顧問でもある先生は、

若くとても熱心で、休むたびに電話をくれたり家に来てくれたり、気持ちを聞いてくれ、励ましたり心を尽くしてくださっている。



それが信頼を生んだり、時には、

プレッシャーになることもあった。



ただ、お母さん1人で抱えないでくださいと、

背中を押したりする役割をさせてくださいと、それぞれにしかできない役割を分担するという考えを提示してくださったりして、ありがたかった。



学校に来てほしい、

学校に行っても行かなくてもても良い

の前提のズレから、これまで話をしても平行線なこともあったけど、



昨日は色々と腹を割って話せて

息子がどんな道を選んでも、選んだ人生を応援するという想いにおいて、一致していると感じられた。




実は、息子の中学の保健の先生は、

わたしの高校の部活の先輩!



とっても優しい先輩で信頼もしていたけど、


ゆきちゃんの子なのにどうして?

どういう生活させているの?とか、先輩に思われるのがすごく気になって嫌だったショボーン



はじめは、何かあったら保健室に行くんだよ、と言えていたのが、ほんとうにちょいちょい行くようになるにつれ、お願いだから保健室ばっかり行かないで!恥ずかしいから!っていうザワザワとの闘いがあった。




いまは徐々に行かない日が増えてきているけれど、完全不登校でもなく、部活を楽しんだりしていて、行ける日は普通に学校に行って友達もいる。



学校に行きたい気持ちと行きたくない気持ち両方ある今は、朝行けない日は学校に連絡するのが、地味に苦痛。



わたしの中の、まだまだある、ダメなお母さんと思われるんじゃないかとか、こどもがズルしてると思われるんじゃないかとか、常識など染みついてきたものがザワザワするんだろう。



今朝は休むことになり学校に電話。

毎日だいたい決まった先生が電話を取ることが多いけど、これまでで初めて、先輩である保健室の先生が電話を取って、あ!と少し驚いたけど、


わたしの中の先輩を避けたい気持ちが、和らいでいて、自然と自分を飾ることなく話ができた。



今日は先輩の産休前最後の日、とのこと!

全然知らなくて、またまた驚いたんだけれど、先輩も気にしてくださっていて、モヤモヤを残すことなく、担任の先生と色々話せたあとで、またひとつ手放せた段階、心の雪解けとともに、ベストなタイミングでのシンクロニシティが起きたんだなぁと感じた。





良い後輩でいたかったんだなぁ。

それは先輩が大好きだったから。

優しくしてくれたから。

別に、良いお母さん、良い後輩(ってなんだ笑い泣き)じゃなくても、先輩は先輩だった。

昔と同じく、あったかかった。



良い〇〇でいたい、

は、そうでないと愛されない、認められない

など自己信頼値が低い状態。

だけど愛されたい、認められたいという、

結局は愛発なのだ。



良い〇〇に縛られなくても、

愛があることに気づき、じんわり満たされて安心が広がっていく。



息子がどうであっても、愛してることを通して、わたしも愛されていることを知る。



わたしにとっても、息子にとっても、

不登校を通して、それぞれに気づきや学びがある。



知らずに通る人生よりも、

わたしたちに必要な過程なんだと思う。




ひとりでは経験できないことを経験させてくれて、ありがとう。



生まれてきてくれてありがとう😊






…今日は休みだったので、

ヒルナンデス?で、パンダ史上最も美しい膝カックン動画を見て親子で爆笑パンダパンダ(笑)


平和だ。


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