アドラー心理学を学ぶ前は・・・
ほめることはいいことだと思っていました。
しかし、ほめることは、多くの問題を含んでいることを学びました。
どんな問題があるというのでしょう?
野田俊作先生は、このように述べています。
ほめることは勇気づけになりません。
ほめることは勇気づけにならない?
なぜでしょう?
ほめられることで、子どもは適切な行動をするようになるかもしれません。しかし、それはほめられる喜びのためであって、適切な行動をする喜びのためではありません。
ほめて育てられた子どもは自分の利害にしか関心がなくなってしまいます。「人々のために私がすべきことは何か」と考えるかわりに「人々に向かって何をすればほめてもらえるか」と考えるようになるのです。これはとても利己主義的な考えかたです。
さらにほめることの問題点について野田先生は述べます。
あまりにもほめすぎると、子どもは、ほめられることは自分の当然の権利だと考えるようになるかもしれません。このように考えるようになってしまった子どもは、努力したにもかかわらず、それに見合うだけの称賛を得ることができないということがあると、ほめてくれない人たちに対して腹を立てることでしょう。
ほめることには、このような問題点があるというのです。
では、どうしたらいいでしょう?
そこで勇気づけの登場です。
例えば、子どもが学校の踊り場でごみを拾って、ごみ箱に入れてくれたとしたらどう声をかけるでしょう?
また、家で同じようなことをしたとしたら・・・
そんな場合、どうしますか?
それを当然のこととして、何もしないというのはもったいない。
子どもの行動に対して、何の関心も示していないからです。
ただ、「えらいね~」という声がけは、ほめていることになりますね。
ほめるとは、上から目線で、与える評価的な表現。
よくやりがちかもしれません。
では、どうすればいい?
もし、子どもの貢献に対して「ありがとう」と言ったら・・・
それは親と子、教師と子どもが対等な関係であることを意識させることでしょう。
もしくは、
「ゴミを拾ってくれて、助かったわ」
「ゴミを拾って捨ててくれて嬉しかったよ」
このような表現を使うなら、その行動によって、自分が誰かの役に立てるということを感じさせるはず。
いわゆる貢献感を子どもの中に育てることができるでしょう。
私は役にたつことができる。
私は必要とされている。
そんな感覚を子供の中に育ててあげたいものです。
生活の中に便利なものがあふれている今の時代。
どうすれば、親と子が協力して暮らせるか、それを意識して暮らす必要がありそうです。
参考図書
「続アドラー心理学トーキングセミナー」