塾の中学受験クラスの一番難しいクラスで、良くできた替え歌を歌っている子がいた。

 

子どもの頃から私は、小学生男子の替え歌作成能力は素晴らしいと思っていて、素晴らしい作品(歌詞の整合性、必然性、ストーリー性、押韻などが字余りなく整っている作品)は賢さの現れだと評価している。

 

そのクラスは、その塾の先生曰く、日本で1番2番の中学(偏差値ランキングでの話)に行かれてもうこちらには帰って来られず私達がもうお会いすることもないような方もいらっしゃる、そうである。

 

敬語の使い方を見るに、進学塾の先生は、子どものテスト結果に本当に敬意を払っているようだ。

 

ところが、地元小学校にも、同じ曲で替え歌を歌っている子がいて、こちらの方が少し、完成度が高かった。

 

その小学校の子達は、6年生まで公園で遊び回っていて、ゲームもするが、鬼ごっこや穴掘りで何時間も遊んでいる。野球やサッカー、バスケをしている子もいる。

6年生でこんな自由遊びができる子達がいるのか、と最初に見た時、とても嬉しかった。

 

先の塾の子は、やはり成績も良く、先生の言葉を借りるなら、日本で1〜2を争う評判の学校に行き、社会のルールを作る側に行くのだろう。

 

公園で遊んでいる子は、授業中の発言を見ても利発で反応が速く、仲間をうまく和ませ、まとめ上げ、ムードメーカーのような、リーダーのようになっていた。

 

最初、あの子絶対賢いし勿体ないな、と思ったのだけど、良く考えてみると、学力が高い子がみな、中央に行ってしまったら、地域を支える人材がいなくなってしまう。

 

中央にも、地域にも、優秀な人材は必要なのだ、と、ハッとした。

 

その子の保護者も、PTAやら何やら引き受けて、地域のまとめ役のよう。

その子は自分がペーパーテストに向いているなんて気が付かず、中学で運動部に入り、高校でバイトして彼女を作り、成人して、その子の親のように地域に貢献するのだろう。

 

色々な子の育ちが楽しみだ。