随分前だけど、黒い講師という塾講師の本を読んだ。

 

一年間の受験年度、中学受験の内容だけど、たくさん課金して最後、落ちた子に対しての感想が、こんな感じだったか。

 

こういう家庭の子は高校受験、大学受験でも同じようにお金を使う。下の子もいたから同じように使うだろう。おいしい。

 

結局、塾の先生から見たら、そのように見えるのか、と思った。

 

生徒に塾が必要か否かではない。

塾に課金する家庭は、いつでも課金する。

しない家庭は、いつもしない。

 

実際に教えると、家庭の、学習への考え方や生活習慣がいかに大切かと思う。他所の“先生“を、少なくともその分野で信頼しようとするか、とか。ちゃんと寝て、適切な栄養を取って、体を動かすことを、自発的に何となく好んでしていて、のびのび好奇心に満ちた状態で学習しにきているかとか。やらされ過ぎて嫌になっていないかとか。

 

その時点で何ができるか、何を理解しているかよりもずっと大事に思える。

 

 

黒い講師が本の最初の方で書いているのは、「お子様の未来のために一緒に頑張りましょう。」と言えば、多くの母親が落ちる(入塾する)そう。

落ちないのは、現実主義の母親と、もう一種類、だけだとか。

 

つまり、

 

母親を落とす=お金を稼ぐ=生計を立てる

 

ことで、まあ、多くの人の働く理由第一番目は生活費を得ることだから、当たり前といえば当たり前。

 

、、、なんだけど、世知辛い世の中ですね。

 

私としては、何らかの事情で集団についていけない、またはついて行けないと思い込む場合、塾が有効なこともあると思うけれど、それでも客の方に、塾を利用する、使い倒す、というような主体的な感覚も大事に思う。

必要な部分を見極めて、対価を払う、というか。

(学校教育で提供されないものは特殊なので、習い事のような扱いで別に見ています。やらなくても社会人になるのに必須ではないから、ご家庭の方針で好きにされることではと。)

 

学校に対しても同様に、公教育だとしても、教育の目的と価値を理解して使い倒す、と言うスタンスなら、追加の学習費はほぼ要らない(1年で数千円とか)し、本人にも無理がない。

 

大人でダブルワークの人は少ないのに、体のできていない子どもはダブルスクールがスタンダード、と言う現状が、日本の多くで当たり前になっているとしたら、国として歪ではと思う。

 

自分の学生時代に、色々な国の学生と過ごした経験がなければこんなことは思わなかったかも知れない。

 

睡眠時間もしっかり取って、趣味や遊びやデートにも勤しんだ高校生活(やらされ部活とか進学材料になりそうな活動ではなく自発的で役に立たないもの)を送っていても、その国のいい大学に行っていい就職もしていく。

 

そんな経験してる子達と、十代をテスト勉強漬けで過ごした日本人学生が対等に渡り合える訳がない。

 

 

いや、そもそも、それで生きていけるなら、十代を受験勉強で過ごす必要はなかったんじゃない?

 

それが、留学生の子達としばらく過ごして最初の疑問だった。

まあ、私は受験勉強してなかったし好き勝手してた方だろうけど、みんないつもピリピリしてテスト前は遊んでくれる人がいなくなる事態にはならなかったんじゃないかな。

 

上記に書いた、受験と進学に役に立たないこと、たっぷりの睡眠、趣味、遊び、デートって、受験が終わったその後の長い人生においてとても大事なことではとこの年になると思う。

 

私は社会人になってから資格試験も受けたし、勉強の大事さは重々沁みてるんだけど、違和感を感じる勉強への向かい方をしている人を多く見かけるように思う。

 

こないだのクロ現で、教育虐待の要件として、子どもを自己同一視しているから、自分のことを悪い親だと思っていないと言うようなことを言われていた。

 

それならば、子どもの受験合格に、おめでとう良かったね、ではなく、

 

嬉しい

 

という言葉が出る親は、自分事のように喜んでいるということで自己同一視しているサインではないだろうか。

『翼の翼』で、子どものできを褒められると、他で経験したことのない、舞い上がるような気持ちになるとか表現されていたっけ。

 

でも、周りを見るとそういう親の方が多いのではと危惧する。

 

子どもの勉強への向かい方は、家庭環境と、親や親族の考え方に大きく影響される。

だから黒い講師は、成果やレベル感などと関係なく、子どもの補助学習費にお金を使う親は使うし、使わない親は使わない、という意味のことを書いたのかなと。