今日のワークブックは、レッスン266
「神の子よ、私の神聖な自己があなたの中に宿っている」。
ホントは昨日のレッスンだったんだけど、今朝も気になって仕様がなかったので、もう一度、ちゃんとやることにしました。
今の私の状況に多分、関係していると思うし、わからない時はとにかく読み返す、イエスが何を伝えたいのか聞き取る、というコースの学習法を思い出したから。
なので、どんなプロセスだったか、書いてみます。
自分のためだけど、ワークブックをしている人には面白いかも。
今日のレッスン、何回も言葉にしてみると、
イエスが私に忘れないようにと語っているようでもあり、
私が今こころに引っかかっている人に対して、その人に呼び掛けているようにも受け取れました。
ただ、その人に訴えているのではなく、その人の中に自分と同じ聖なる自己があると、自分に言い聞かせているのかな。
神への祈りは、「あなたの子が、あなたの聖なる名を忘れませんように。自らの聖なる源を忘れませんように。自分の名はあなたの名であることを忘れませんように」。
イエスが私の代わりに祈ってくれている。
イエスの意思は私の意思でもあると知っているから。私が忘れているから。
そこまではわかるのですが、
「神のすべての子供たちを救済者、および助言者として、目に見えるように私に授けてくださいました。彼らはあなたの聖なる声を私に運ぶ者たちです。彼らの中にあなたが反映されています」。
やはりここが受け取りきれない。
「なんと多くの救済者を、神は私たちに与えてくれたことだろう!」(そうなんだなぁ。びっくり。まだ受け入れきれない感じ)
自分にとって苦しみの種だと自分が見ている人たちが、実は救済者なんだ! 神への道を指し示してくれる人たちなんだ!
もひとつ。
「今日、私たちは、神の名と自分たちの名に訴え、私たち一人ひとりのうちにある私たちの自己を確認しつつ、神聖な神の愛の中で一体となって、楽園に入っていく」。
ひとり一人のうちにある私たちの自己!
それぞれの自己じゃないみたいだ。同じ大いなる自己!
そうなのかもしれないけど、そのように見たいと願っているかな、私。
同じ真の自己(大文字の自己)がお互いの中にあって、それを認めて一体となって一緒に神の愛の中に戻るんだ!
なんだか、戸惑うなぁ。
はぁーい!って、元気よく挙手できない、私。
そして、最後の文。
「神が、ご自身を指し示す人々で世界を埋め尽くし、私たちに真に彼らを見るための視覚を与えてくれているというのに、わたしたちが神への道を見失うことがありえるだろうか」。
視覚か!
そのように見える目、視覚を私たちはすでに与えられているんだな。
おぼろげながら見えたような。
まだ受け取れ切れていないけど、よーく読んで、繰り返し読んでみて、玄関口までは来たような気がする。
こうやって準備していくのだね。
さっささと時間かけずにっていうのが今風でいいかもだけど、
コースはそうはいかないですね、やっぱ。
訓練が要るのです。
私はクリスチャンでもないし、聖書の知識もほとんどないけど、なぜか奇跡講座でイエスが一生懸命伝えたい、教えたいと願っている愛と平和の生き方をちゃんと聞きたいし、学びたいです。
自分の知っている解釈で済ますのはいずれ行き詰るというのが、今回、ちょっとわかりました。イエスが伝えたいことに本当に耳を澄ますというか、真摯に読む、学習する態度で行こうと思います。生き方になったらいいな。
まだまだ小学生クラスだなぁ。いや幼稚園生かしら。
でも、そんな風に仲間と一緒に学べたら、うれしいです。
コースに戻れた気がします。
長文、読んでくださって、ありがとう。