松山海軍航空隊基地と「甲飛」&「乙飛」 | ゆきの時間……台湾に暮らした先祖の足跡を辿って

ゆきの時間……台湾に暮らした先祖の足跡を辿って

☆高祖父は『南島雑話』の名越左源太時敏 ☆名越(なごや)は祖先の姓
☆曽祖父(左源太の次男&時成の弟)は明治時代に台湾総督府勤務
☆祖父は台湾・麻豆の役所勤務定年後に嘉南大圳水利組合で勤務
☆父は台湾の台南・麻豆生まれ、亡き母は旧満州・新京生まれです☆

☆2009年に多賀山の東郷平八郎像を見て、

(当時のブログ記事→『多賀山公園へ−2』)

ニュースで海上自衛隊の軍楽隊の式典を見て、

それがキッカケだったかどうかはもうわからないけど、

父が生前、東郷会に会費を納めていたため、会報『東郷』が隔月で送られて来る。

http://togokai.com

まだ退会届を出していないけど、次の年会費を納めていないので、そのうち来なくなるのだろうと、そのままにしている。

 

11・12月号(No. 548)が先月か先々月に届き、パラパラとめくってみたところ、「最後の少年兵「予科練」(上)」というタイトルのコラムに(編註)として、<「予科練」とは「海軍飛行予科練習生」の略称である。>と解説してあった。

 

更に読むと、父から生前聞かされていた話が理解できた。

その文章は以下の通り続いていた。

 

「海軍における航空兵養成制度の一つで志願制である。制度の変遷はあるが、基本的には応募資格は十四歳からで、三年間(後に短縮)の教育を経て飛行兵になる。後に幹部搭乗員育成のため旧制中学四学年終了以上の応募者を育成する甲種飛行予科練習生(甲飛)の制度が設けられたため、従来の練習生は乙種飛行予科練習生(乙飛)と改められた。

 本稿は、結城氏(※このコラム著者)が昭和十九年、十四歳で予科練に志願し翌年入隊、終戦まで予科練として過ごした記録である。

 三回(上・中・下)にわたり連載する。」

 

以上、父が言っていた「甲飛」「乙飛」の意味がようやく分かったというお話です。

父は「甲飛」と言っていたが、この説明でなるほどと納得できた。

 

当時の情勢から、どのみち兵隊へ行かなくてはならないのなら陸軍ではなく飛行機乗りになろうと思ったらしい。

祖父は進学させたかったらしく、父が航空隊の試験に受かったことを知り、落胆した様子だったそうだ。それを見て父は

「あの時は、親不孝をしてしまったなぁと思ったよ‥‥。」

と悔やんでいた。

 

昭和19年3月に旧制中学校を卒業し、台湾・高雄から日本本土へ向かう船に乗り、途中で米軍の攻撃から逃れるため釜山辺りの島影に一晩停泊してやり過ごしたりしつつ、4月1日に到着するとそのまま四国・松山の海軍航空基地の予科練習生となる。

 

グライダーのテストでは「上手いなぁ」と褒められたらしい。

ただ、実際に飛行機に乗ることはなかったそうだ。

 

翌年、米軍による松山襲撃を体験。父は運良く助かったが、父より年下の子たちを含む多くが犠牲になったそうで、「可哀想だった‥‥」と言っていた。