空気が、じわじわと輪郭を持ち始める。
重さだけが、部屋の隅から隅まで広がっていくようだった。
キッチンの換気扇が、低く唸る音だけが聞こえていた。
私たちの間にあるものを、かろうじて繋ぎとめているのは、その機械音だけだった。
「……午後は、誰といたの?」
沈黙を切り裂くように、私の声が落ちる。
問いは尖ってはいなかった。
むしろ静かで、淡々としていて――それだけに、深く沈んだ。
由依は、テーブルの縁に置いた指先を、かすかに動かしただけだった。
答えようとする気配がありながら、口元は硬く結ばれたまま。
逃げ道のない沈黙が、いくつかの呼吸をまたいで、ようやく彼女の胸から微かな息が漏れた。
「……名前を言っても、理佐は知らない人だと思う」
掠れた声だった。
でもそれは誤魔化しではなく、心の奥からようやくすくい上げた言葉だった。
「今度、私が主演するドラマの脚本家さん。……〇〇さんっていう」
私はまばたきを忘れたまま、ただ耳を澄ませた。
ゆっくりと胸の奥がきゅうっと絞られていくのを感じながら。
「打ち合わせで何度か会って……役づくりの相談をしてるうちに、“役者としてじゃなくて、あなた自身に惹かれてる”って言われた」
そこで、由依の肩が小さく震えた。
震えを抑えるように、テーブルの縁を掴む指が力を込める。
「最初は冗談かと思った。冗談だって笑える自信があったのに、本気だってわかって……怖かった。
応えられないって、自分でもわかってる。なのに、うまく距離が取れなくて……」
あのカフェで見た、由依の笑顔が胸に浮かぶ。
自然で、楽しそうで――私には見せたことのない顔だった。
「……じゃあ、“好きだよ”って言ってたのは、その人に、だったの?」
そう問いながら、自分でも驚くほど喉が焼けつくように痛んだ。
「えっ」
由依がはっとしたように顔を上げた。
揺れる目が私を捉える。
「……あのときの電話、“ふーちゃん”じゃないよね?」
質問というより、もう答え合わせだった。
張りつめた沈黙の中、由依はぽつりぽつりと話し始めた。
「……電話のとき、あの人が、ダメ元でいいから、好きって言葉だけでも欲しいって言ってきたの。
私は黙ってた。でも、沈黙に耐えられなくなったのか、好きだよって言われて……
……そしたら、気づいたら、“ありがとう、好きだよ”って返してた。無意識だった……」
由依の声が震え、テーブルに、ぽつりと涙が落ちた。
「本気で気持ちを返したわけじゃない。ただ、動揺して、気を遣ったふりをして、嘘をついた。
ふーちゃんなんて名前を出して。理佐が聞いたら傷つくって、わかってたのに……」
私は、拳をぎゅっと握った。
怒りじゃない。ただ、由依の孤独が、どうしようもなく胸に刺さった。
「どうして、私に言わなかったの?」
抑えた声が、部屋の空気に溶ける。
由依は少し俯いて、寂しそうに笑った。
「理佐といる時間が、やっと穏やかになったから。
この関係を、また壊したくなかった。
好きってもらったのに、自分はまだ好きがどういうものかわからない。
そのこと自体がもう、ずっと罪悪感で……言えなかった」
私は一歩近づき、由依の手のひらを上向きにひらかせた。
そっと、自分の手を重ねる。
「壊さないよ」
視線を合わせ、真っ直ぐに言った。
「言わないことで、逆に崩れていってたって、気づいてたよね」
由依の睫毛が震え、また涙がひと粒だけ、頬を伝った。
「……ごめん」
「謝るより、ちゃんと私を頼って。
怖いも、揺れてるも、隠さないで」
声が少しだけ掠れていたけど、心は揺れていなかった。
見失いそうになっていた彼女の手を、今、しっかりと取り戻していた。
「私、約束したよね。逃げたら引き戻すって。
――だから、逃げんな」
その言葉に、由依の肩からふっと力が抜けていく。
強ばっていた指が、そっと理佐の手を握り返す。
「……私ね」
由依は涙交じりの声で、ゆっくり言葉を選びながら続けた。
「〇〇さんに言われて気づいたの。好きって言われたとき、一番に浮かんだのが理佐の顔だった。
でも、それでも返事を迷ってる自分がいて……どうしたらいいのか、ずっと分からなかった」
その言葉に、胸がじんわりと熱を帯びていく。
迷いの中で、自分の存在が由依の中にあったことが――ただ、うれしかった。
「……ねえ、期限まで、あと一ヶ月しかないけど」
私は彼女の手を軽く揺らす。
「私はもう、好きにさせる”じゃなくて――
由依の好きが、どんな形でもぶつけられる場所になりたいの」
由依は泣き笑いで、首を横に振る。
「ぶつけたら、壊れちゃうかもよ」
「ガラスじゃないから。大丈夫」
ほんの小さく笑い合う。
だけど、そこでは終わらせない。
「……〇〇さんには、返事した?」
「まだ……できてない」
「じゃあ、今度会うとき、私も一緒に行っていい?」
「えっ……?」
「役者のマネージャーですって顔して横に座るよ。
本気で、あなたを守りたいって、ちゃんと伝えるから」
由依は、驚いたままの顔で、ぽろりと笑い泣いた。
「ずるい……そんなの、好きになるしかないじゃん」
理佐は頬をほんの少しだけ染めて、静かに、でもしっかりと由依の額に自分の額を寄せた。
「――それでいい」
━━━━
その夜、雨はとうに上がっていた。
しとしとと降り続いていた滴が止んだあとの世界は、どこか息を潜めたように静かで、
窓の外には、濡れたアスファルトが街灯を反射しながら、柔らかく光っていた。
カーテンの隙間からこぼれるその淡い光を見つめながら、私たちは、同じ毛布の中で静かに横になっていた。
隣同士。いつもの距離。だけど今夜は、心の距離がほんの少しだけ、変わっていた。
理佐が、そっと私の方へ体を傾ける気配がする。
動いた空気が、腕の内側をかすめる。
布越しの温度が、すぐそばまで近づいてきた。
触れてはいない。
けれど、たしかに気配は感じられた。
私は息を潜める。
胸が高鳴って、鼓動の音だけがやけに大きく聞こえる。
毛布の中のぬくもりが、心の奥までしみ込んでくるようだった。
「……ねえ、由依」
名前を呼ぶ声が、ささやきよりも小さく、
けれど、すぐそばの耳元で確かに響いた。
私は驚かないように、ゆっくりとうなずいた。
この距離で言葉を交わすことが、どこか儀式のように感じられた。
「もしさ……ずっと、このままでいられたらって思っちゃうのって……だめかな」
その声は、はっきりとした告白ではなかった。
だけど、言葉の奥にある想いはあまりにも真っ直ぐで、
胸のどこかが、きゅっと締めつけられるように熱くなった。
「だめじゃないよ」
私は、ほとんど囁くように答えた。
理佐の気持ちが、すべて分かるわけじゃない。
でも、その一部が確かに届いた気がした。
言葉ではなく、温度で。
視線ではなく、間にある静けさで。
そのとき、ふと、手が触れた。
小指の先、ほんの少し。
偶然なのか、それとも意図的なのか。
でも、その一瞬だけで、心の奥が火照るように熱を持った。
指先の触れ合いは、言葉よりも雄弁だった。
ここにいるよと、大丈夫だよと、伝えてくれていた。
静かな夜の中で、二人だけの時間が、そっと流れていく。
世界は何も変わっていないのに、
このベッドの中だけが、誰にも触れられない特別な空間になっていた。
「……理佐」
思わず名前を呼ぶと、隣から「ん」と短く返事が返ってくる。
「さっき、このままでいられたらって思うって言ったでしょ?それって……今のまま、ってこと?」
理佐は少しだけ考えるような沈黙を置いてから、静かに言った。
「うん。
でも……今のままっていうより、今の距離感で、不安じゃなくいられたらってこと、かな」
「……不安?」
「由依が、私のことをまだ、ちゃんと好きかどうか分からないって思うと、不安になる。
だけど、さっきみたいに一緒に笑って泣いて、そういう時間が積み重なっていくのなら――
このままでも、ちゃんと二人でいられる気がするの」
その言葉を聞いて、私は心の底から安心していた。
不安を感じているのは、私だけじゃなかったんだ。
理佐だって、私の言葉に揺れて、胸を痛めていた。
それなのに、いつも私を守る側に立とうとしてくれる。
「……ありがとう」
その一言を伝えると、理佐がふっと笑ってくれた気配がした。
そして、小さな声でこう囁いた。
「ねえ、もうちょっと、だけ近づいてもいい?」
私は答えなかった。
けれど、自分からほんの少しだけ、体を寄せた。
そしたら、理佐の手がそっと私の腕に触れた。
その優しさに包まれるように、私は瞼を閉じた。
その夜、何も起こらなかった。
けれど、確かに何かが変わった。
それは恋人という言葉よりも、もっと手触りのある信頼だった。
不器用で、ゆっくりで、でも確かに育っていくもの。
明日になれば、また新しい何かが始まるかもしれない。
〇〇さんへの返事。
不安や葛藤。
すぐに平穏なんて訪れないかもしれない。
でも、この夜だけは――このぬくもりだけは、きっと忘れない。
触れ合った指先の記憶が、心の奥深くにそっと残ったまま、
私たちは静かに、同じ毛布の中で朝を迎えた。
目を覚ましたとき、最初に意識に触れたのは、外から差し込む白い光だった。
カーテンの隙間から入り込んだ陽の筋が、壁にやわらかく揺れている。
時計の針は、いつもより少し遅い時間を指していた。
隣を見ると、理佐がまだ眠っていた。
ゆっくりとした呼吸のリズム。
胸が上下するたびに、毛布の下でふわりと空気が動く。
その穏やかな寝顔に、思わず胸が詰まる。
こんなに近くにいるのに、昨日までは気づけなかった。
どれだけ私が理佐に守られていたか。
どれだけ、自分が怖さから目を背けていたのか。
目を閉じて、昨夜の言葉が、静かに胸の中に降りてくる。
――「逃げんな」
理佐の声が、記憶の奥で何度も響いた。
怖がらないで、ちゃんと頼ってって。
その言葉に、どれほど救われたか分からない。
「……朝だよ」
そっと名前を呼びかける代わりに、私は理佐の髪をひとすじ、指でそっと撫でた。
その感触に、彼女のまぶたがゆっくりと開かれる。
「……ん。おはよう」
声がまだ眠たげで、でも確かに私に向けられたものだった。
「……おはよう」
それだけで、胸がふっと緩んだ。
朝の挨拶ひとつが、こんなに安心できるものだったなんて、知らなかった。
毛布の下で指先がそっと触れる。
昨夜よりも少しだけ大胆に、でもまだ、ぎこちない優しさで。
「……行こうか」
理佐がぽつりと呟く。
私はすぐに、何のことか分かった。
〇〇さんに――会いに行く。
「……うん」
小さく返事をすると、理佐は微笑んだ。
まるで、私の心の準備が整うのを、ちゃんと待っていてくれたかのように。
昼過ぎのカフェは、落ち着いた空気に包まれていた。
あの日と同じ場所。
同じ席。
けれど今日は、隣に理佐がいる。
私は、白いシャツに黒のパンツというシンプルな服装を選んだ。
役作りの相談という名目を通すには、あまりに緊張していることが自分でも分かる。
理佐は、マネージャーとして私の隣に座っていた。
けれど、その瞳はどこまでも真剣で、冷静に周囲を見渡していた。
少し遅れて、〇〇さんが現れた。
黒のジャケットに、眼鏡。
知的な雰囲気と優しさを感じさせるその人は、私たちを見ると、少し戸惑ったように眉を動かした。
「……こんにちは。今日は……お二人で?」
「ええ。私、小林さんのマネージャーをしています。渡邉と申します」
理佐は、柔らかく、けれど一切のブレがない声でそう名乗った。
〇〇さんが軽く頷いたあと、私の方を向く。
「連絡……ずっと来なかったから、心配してた」
「すみません。……どう言葉にしたらいいか、分からなくて」
私の声は、かすれていた。
でも逃げなかった。もう、逃げないと決めたから。
理佐の手が、テーブルの下でそっと私の膝に触れる。
震えそうな心を、ひとつに繋ぎとめてくれるその温もりに、私は小さく深呼吸した。
「……私、あの日、好きって言いました。
でもそれは、本心じゃなかった。……正確には、本心を言えなかっただけです」
〇〇さんは、ただ静かに聞いていた。
怒りも、悲しみも見せず、ただ、聞いていた。
「あなたに言われた好きって言葉で、私は、自分が誰のことを想っているのか、気づけたんです。
遅すぎたけど……でも、あのときの言葉は、ちゃんと向き合わなきゃいけないものだったと思ってます」
私は、となりにいる理佐に一度視線を向け、そしてもう一度〇〇さんに向き直る。
「本当にごめんなさい。私を好いてくれた気持ちに、誠実に応えることができなくて。
でも、あなたのおかげで、大切な人とちゃんと向き合う覚悟ができました」
〇〇さんは、少しだけ目を細めて、静かに頷いた。
「……なら、よかったよ。
本当に、惹かれてたからこそ、君の言葉がちゃんと本音であることが……嬉しい」
その言葉に、私は肩から力が抜けた。
「彼女は今、少しずつ進んでいます」
理佐が穏やかな声で言った。
「すぐに完璧な答えは出せないかもしれません。でも、嘘をつかずに、歩こうとしてる。
私も、その歩幅に合わせて隣にいます。……だから、どうか、そっと見守ってください」
〇〇さんは少しだけ笑った。
その笑みには、寂しさと、どこか安堵が混ざっていた。
「……君、ほんとにマネージャーじゃないよね?渡邉理佐さん」
理佐が少し照れたように笑い返す。
「まぁ、似たようなもんです」
それは冗談のようでいて、本気の気持ちを包んだ言葉だった。
カフェを出たあと、私たちは並んで歩いた。
少しだけ風が出ていて、理佐の髪が揺れる。
「……かっこよすぎるでしょ、さっきの」
私が笑うと、理佐は少し眉をひそめて、
「そりゃ命がけだったもん」と呟いた。
「え、なにが?」
「……あなたのこと守りますって、正面から相手に言うの、めっちゃ恥ずかしいじゃん。
でも……後悔したくなかったから」
私は、ふと立ち止まる。
そして、理佐の手を取った。
「ありがとう。
あのとき、隣にいてくれて、心強かった。……ほんとに、守ってくれた」
理佐は何も言わずに、その手をぎゅっと握り返した。
言葉よりも、確かなぬくもりがそこにあった。
──次の一歩を踏み出す勇気を、もらった気がした。