風が少しだけ冷たくなった。
夏の終わりを感じさせる、八月の夕暮れ。
蝉の鳴き声が遠くから聞こえ、すぐに虫の音がそれを塗り替えていく。
あれから、十日が過ぎた。
何かが大きく変わったわけじゃない。
けれど、私たちの間には確かにひとつの節目が訪れ、そこから流れる空気がやわらかくなった気がしていた。
「……一緒に夕ごはん、食べない?」
仕事帰り、玄関を開けた瞬間にそう言われて、私は首をかしげた。
「え? 今日、撮影で疲れてるんじゃないの?」
「うん、疲れてる。でも、理佐と食べると回復するかもしれないって思って」
あまりにも自然にそんなことを言うから、私は靴を脱ぐ手が止まって、思わず笑ってしまった。
「何その理屈……」
「理佐ビタミンってやつ?」
「効能:めっちゃ甘やかしてくれる?」
「うん、あと、たまに冷たくされて落ち込む副作用あり」
ふたりで顔を見合わせて笑ったあと、私はふと、その会話の中にある距離の近さに気づいた。
こうやって冗談を交わすとき、もう前のように一歩引いたり、相手の顔色を窺ったりしていない。
ちゃんと正面から笑えてる自分がいる。
理佐と一緒にいると、それが自然にできる。
キッチンに立って、ごはんを作る理佐の後ろ姿を見つめる。
この光景も、少しずつ私の日常になりつつあった。
鍋から立ちのぼる湯気。
鼻をくすぐる出汁の香り。
そして、同じ部屋にいるというだけで、心が落ち着くこの感覚。
どれも、初めてじゃないけど、初めてのように大事にしたくなる。
「……なんかさ」
不意に理佐が振り返りもせずに言った。
「こうやって、何も特別なことがない日を、特別だなって思えるのって、
大事な人がそばにいるからなんだろうね」
鍋に集中しているはずのその言葉が、
まっすぐ私の胸の真ん中に落ちてきた。
私は、返事をする代わりにそっと背後から近づき、理佐のシャツの裾を、くい、と掴んだ。
「……そう思ってもらえてるなら、よかった」
理佐は少し驚いたように振り返って、でもすぐにやわらかく微笑んだ。
「由依から、そんなこと言うなんて。成長じゃん」
「ばか」
頬を染めながらそう返すと、理佐はふふっと笑いながら、
「でも、そういう素直な由依、私はすごく……好きだよ
まっ、どんな由依でも好きだけどね」
まっすぐな言葉だった。
あの夜から、理佐は私に向かって、少しずつ好きを重ねてくるようになった。
そのすべてが、私の胸の中に積み重なって、何度もあたたかく、何度もくすぐったかった。
私はまだ、「好き」という言葉を完全に口にできていない。
けれど、そのかわりに、行動で少しずつ返すようになった。
夜、洗い物を手伝う。
朝、コーヒーを入れる。
仕事で疲れてる理佐の背中を、何も言わずに撫でる。
そういう小さなことを、私は今、選んでやっている。
好き、って言葉にするのが怖い。
口にしてしまえば、それが本物かどうか確かめられてしまいそうで。
でも、言わなくてもちゃんと伝わることがある。
そう教えてくれたのは、隣にいるこの人だった。
⸻
ある晩。
テレビを観ながら、理佐の膝枕で私はうとうとしていた。
理佐の指が、私の髪を梳く。
そのリズムがあまりにも心地よくて、意識が何度も揺れる。
「……ねえ、由依」
「……ん」
「まだでいいんだけど……いつか、好きって言ってもらえたら嬉しいな」
その声は冗談まじりだったけど、冗談じゃないことがすぐに分かった。
私は目を閉じたまま、そっと理佐の手首をつかんだ。
「……まだ、だよ」
「うん、わかってる」
「でも……たぶん、すごく、好きには、なってきてる」
理佐の指が、一瞬止まって、そしてまた動き出す。
「……うれしい」
そのひとことが、耳元に落ちてきて、私は目を閉じたまま笑った。
⸻
すぐに恋人になるわけじゃない。
名前をつけた関係になるわけでもない。
でも、間違いなく私たちは“進んでいた”。
あの頃のように、自分を偽って生きる日々じゃない。
誰かに好かれるために、自分を殺す毎日でもない。
“隣にいたい”と思える人がいる。
“守られている”と思える腕がある。
そして、“ここにいてもいい”と思わせてくれる居場所が、少しずつ、私の中で形になっていく。
名前がなくても、証明なんてなくても、
この関係がちゃんと育っていることを、私は確かに感じていた。
「……ねえ、たまにはどっか行かない?」
理佐がそう言ったのは、残り3日の夜だった。
ソファの上、並んでスマホをいじっていた時。
ふと見せてきたのは、水族館のチケットサイト。
「前に言ってたじゃん。行きたいって」
「……言ったっけ?」
「2ヶ月前くらい。仕事でイルカと共演したくせに、生で見たことないかもって」
「そんなこと言ったかな……」
恥ずかしくて目を逸らしたら、理佐はちょっと得意げに笑って、
「まあ、行こ? “仮デート”ってことで」
「……“仮”?」
「うん。まだ好きってちゃんと言ってもらってないし、私たちの関係ぽいじゃん?」
「……言いたくなくなる」
「ほら、またそうやって照れるー」
そうやって軽口を叩きながらも、
私の返事を待たずにスマホを操作して、チケットをふたつ、予約していた。
⸻
当日、秋の風が少し涼しく感じられる日。
午前11時、集合はちょっと遅め。
なのに私は、朝から落ち着かなかった。
髪型も服も、何度も鏡の前で確認した。
仮って言われたけど、私は本気で行くつもりだったから。
待ち合わせ場所に着くと、理佐はすでにいて、
白のシャツワンピースに、スニーカー。
風で少し髪がなびいて、どこか、見慣れない大人っぽさがあった。
「あっ……似合ってる、その服」
「え、なに? 今日やたら素直じゃん。怖い」
「うるさい、いつもよりちゃんと化粧してるくせに」
「気づいた?」
「……まあね」
お互い少しだけ照れて、それから自然に並んで歩き出した。
⸻
水族館の中は、ひんやりとした空気に満ちていた。
クラゲがふわふわ漂う暗い通路。
背の高い水槽の前で、イルカが泳ぎながらときどきこちらを覗いてくる。
「……かわいい」
思わずこぼれた私の声に、理佐がちらりと横目で見てきた。
「今の、イルカに言ってる?」
「なによ、私がかわいいって言っちゃいけない?」
「ううん、言ってほしい。私にも」
ふいに言われて、完全にオフになっていた頭が一瞬フリーズする。
「……バカじゃないの……」
「え、いま赤い」
「うるさい」
顔を逸らすと、理佐は楽しそうに笑った。
⸻
そのあと、海の生き物のトンネルを抜けたあたりで、
理佐がポケットから小さな飴を取り出して、私にひとつ差し出してきた。
「はい、今日のご褒美」
「……何の?」
「由依、ちゃんと朝から準備して、ちょっとだけ可愛くしてきたから」
「ちょっとだけってなによ」
「かわいいってことだよ」
いつもみたいに茶化す声。
でもどこか、優しさがにじんでいるその言い方が、
胸の奥で静かに広がっていく。
私はその飴を受け取って、そっとポケットにしまった。
「……帰ったら食べる」
「なんで?」
「なんか今日を、ちゃんと覚えておきたくなったから」
そう言うと、理佐が少しだけびっくりした顔をして、
それからすごくやさしい笑みを浮かべた。
「じゃあ、私も取っとこうかな。同じ飴。
そしたら、忘れられなくなるかもしれないね、今日のこと」
そう言って、理佐はポケットに飴を戻した。
⸻
帰り道、夕方の陽が街を少しオレンジ色に染めていた。
電車の中。
揺れる車内で、私たちは席に並んで座っていた。
ふとした瞬間、理佐の指先が、私の小指にそっと触れる。
繋ぐでもなく、離れるでもなく、ただ、触れているだけ。
そのくすぐったい感触が、鼓動にじんわりと溶けていく。
「……こういうのって、仮でもやっていい?」
「仮って言わないで。……ほんとは、うれしいくせに」
「バレた?」
「うん。顔に出てる」
「じゃあ、隠さない」
そう言って、理佐の小指が私の小指に、ほんの少しだけ絡まった。
それだけで、あの日まで迷っていた気持ちが、少しだけ形になった気がした。
⸻
その夜、家に帰ってポケットの中を探すと、飴がもうひとつ増えていた。
包み紙には、小さくまた行こうと、走り書きの文字。
指でなぞって、私はくすっと笑う。
「……ずるいな、ほんと」
でも、ちゃんと胸の奥が、あたたかくなった。
──いつかきっと、この気持ちを言葉にする。
そう思えたのは、きっとあの仮デートがあったからだった。
デートの日から3日が過ぎて
「ねえ、今日って……ちょうど3ヶ月、だよね」
ふいに理佐が口にしたのは、少し冷たい風が吹き始めた秋の夜。
窓を少しだけ開けたまま、カーテンがふわりと揺れている。
テレビの音も切って、コーヒーだけがふたりの手にあった。
由依は、すぐには返事をしなかった。
けれど理佐の言葉を聞いて、カップを両手で包んだまま、小さく頷いた。
「……うん。覚えてた。ずっと、考えてた」
自分の気持ちと向き合うための時間だった。
誰かに惹かれたこと。
理佐に守られてきたこと。
そして、それでも迷っていた自分の心。
理佐は、無理に続きを促さず、ただ静かにコーヒーを口に運ぶ。
その優しさに背中を押されるように、由依はゆっくりと口を開いた。
「この3ヶ月……たぶん、何度も好きって言えたタイミング、あったと思う」
「うん」
「でも、言えなかったの。怖くて。
本当にそうなのか、自信がなかった。
好きって言ったら、また誰かを裏切ることになるんじゃないかって――怖かった」
理佐は何も否定せずに、ただ頷いてくれる。
「……でも、そうやって黙ってるうちに、気づいたの。
怖いからって言わないことで、一番近くにいる人を不安にさせてるのって、すごくずるいなって」
カップをテーブルに置いて、由依は両手を膝の上に重ねる。
指が少し震えていた。
でも、その震えごと、彼女は向き合おうとしていた。
「私はたぶん……いや、たぶんじゃなくて――」
言葉が喉の奥で詰まる。
けれど、時間をかけてゆっくりと、息を吸う。
「理佐のことが、好き。ちゃんと、そう思ってる」
その瞬間、理佐の瞳が、ふわっと揺れた。
まるで冬の星空が、どこかでひとつ光をこぼしたみたいに。
「今までは、理佐に守られてることに甘えてただけだったかもしれない。
でも、あの日、隣にいてくれてうれしいって思った気持ちも、
あの夜、一緒に眠りたかった気持ちも……全部、本物だった」
理佐はまだ、何も言わなかった。
けれどその沈黙は、受け止めるための静けさだった。
「……だから、私、ちゃんと伝えたかった。
私も、守りたいって思ってる。もう逃げたくないから
理佐が泣いたり、迷ったりしたとき、今度は私が、そばにいるからって」
そう言った瞬間、理佐の手が、テーブルの上から由依の手にそっと重なった。
「……由依」
その声は、ほんの少し震えていた。
でも、震えているのは悲しみではなく、きっと嬉しさだった。
「ありがとう。……本当に、待っててよかった」
そして、手を握る力が少しだけ強くなる。
「ずっと言葉にしなくても、私は信じてたよ。
でも……やっぱり、聞けると嬉しい。ちゃんと、泣きそうなくらい嬉しい」
由依は、ふと笑った。
ほんの少し目尻が潤んでいたけど、それは苦しさではなく、やさしい安堵の涙だった。
「……でも、ひとつだけ条件がある」
理佐が少しだけ茶化すような口調で言う。
「好きって言ってくれたからって、調子に乗ったら怒っていいからね?」
「えっ、調子に乗るの?」
「うん。由依が好きって言ったから、明日から毎日くっつこうかなって思ってる」
「やだ、うざい」
「うざくないよ、好きって言われたら距離ゼロになるのが正解じゃん」
由依が呆れたように笑って、理佐も一緒に笑う。
笑い合いながらも、手はずっと、離さなかった。
──“好き”という言葉は、関係を変える魔法じゃなかった。
けれどそれは、何も変わらないように見えて、
ふたりを“対等”にする、たった一つの力だった。
もう、守られているだけじゃない。
もう、待たされるだけじゃない。
これからは、支え合っていく。
ただの“お試し”だった関係は、
この夜、ようやくふたりの意志で、“始まり”に変わっていった。
fin.
𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄
長編第2弾いかがでしたかー?
最後までお読み頂きほんとにありがとうございます
次はいつ投稿になるかなぁ?
リクエスト&感想お待ちしてます
では
またね*