由依side



オフィスの天井の明かりが、まるで無機質な蛍の群れみたいに滲んで見えた。

お昼休憩中のビルの中は、空調の唸る音と微かな話声だけが響いていた、
ふと気を抜くと、隣に座る彼女の気配ばかりを探してしまう。

理佐先輩

社会人になって1年半。
何もかも不器用で、緊張してばかりだった私を、
静かに、でもちゃんと気づいて引っ張ってくれた人。

最初はただの“憧れ”だった。

けれど気づけば、先輩の声ひとつ、仕草ひとつが、
心の奥に静かに灯る火みたいに、消えないで、消えないでって願ってた。

それが、叶った。

つながったその夜は、夢みたいだった。
抱きしめられて、名前を呼ばれて、
「好きだよ、由依」って囁かれたとき、
私は人生で初めてこの人のものになりたいって、思った。

でも。

「あれ、私たち……シてなくない……?」

喉の奥に、小さく引っかかる不安がある。

触れてくれないわけじゃない。
優しくしてくれる。
手も繋ぐし、キスもしてくれる。
でも――そこまで。

理佐先輩はまるで私に触れるのを我慢してるみたいに、距離を保つ。


「……私、なにか、した?」


理由がわからなくて、
でも訊くのが怖くて。
私の中にだけ、形のない黒い塊が育っていく。


𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄



「んで、最近どうなの? 理佐先輩とは」

昼休み、社食の片隅で、サラダをつついていた私の向かいで、土生ちゃんが興味ありげに身を乗り出してくる。



「え、あ……うん。変わらず、かな。仲良くしてもらってる……よ」

「ふぅん? その変わらずってさ、どういう意味で?」

「……え?」

「いや、仲良くの内容ってさ、ほら……それなりに進展してるってこと? それとも……ご無沙汰?」

あからさまに口元をにやつかせながら、
土生ちゃんはストレートに突いてくる。

「なっ……!」

急に顔が熱くなった。
慌ててスプーンを持ち直す私を見て、彼女は楽しそうに笑う。

「あー、ご無沙汰だな、これは」

「ち、ちが……! そんなんじゃ、」

「そんなんじゃ、って? まさか、シたことすらない感じ!?由依ちゃんの方が我慢してるとか?」

「…………」

言葉が出なかった。

図星だった。
むしろ、言葉にされたくなかった。
でも、それだけに



「……ねえ、正直言っていい?」

「うん?」

「好きって……思われてないのかな、って……ふと思っちゃうとき、あるの」


ぽつりと落とした声は、震えていた。



「先輩、すごく優しい。ほんとに大事にしてくれてるのは分かる。でも……それが、触れたくないってことと一緒だったら、どうしようって……」

土生ちゃんはしばらく黙って、
真面目な顔になった。


「……あー、それはね、あるよね。相手が大事すぎて、触れないっていうか……」

「うん……」

「でも、それで寂しいのも当然だし。由依ちゃん、まだ若いし」

「……やっぱ、わがままかな」

「全然。ていうか――」


一拍、ためを置いて、
土生ちゃんは少し笑って目を細める。



「もし本気で欲求不満になったら……私が相手してあげよっか?」

「――え?」



冗談っぽく言ったその一言に、
私の心臓が、ドクンと跳ねた。

まさか、そんな風に言われるなんて。
からかってるんだって分かってても、耳が熱くなる。


「は、土生ちゃん……!」

「冗談だってば。ほんとにもう……顔真っ赤じゃん」

けらけら笑いながらも、土生ちゃんの視線はどこか鋭くて、
その奥にある真意に気づく前に、私は顔を逸らした。






理佐side




昼のオフィスは案外静かだった。

他の人間が次々と外に出ていく中で、私も社食に向かった。
なにか用事があるわけでもない。お弁当を持っているし
ただ、少し……会いたい人がいるだけ。

由依が、まだ会社のどこかにいる気がするから。

話せなくてもいいただ存在だけでも確認したい

今日も元気かなって


由依。

後輩で、部下で、そして
今は、大切な“恋人”。

……のはずだった。

それなのに。

ふと気づくと、私たちは線を引いていた。

いや、引いたのは……私の方だ。
付き合ったあの日
あの夜の記憶は、今でも脳裏に焼き付いている。
由依が泣きそうな顔で、でも嬉しそうに私を見ていた。
抱きしめて、名前を呼んで、何度も好きだよって言った。
ただハグをしてキスをしただけ

でも、あの純粋な目を見てこの子を守らなきゃって
私の手は、あの肌に触れることができなくなった。

欲望がなかったわけじゃない。
むしろ、毎日、堪えていた。
隣に座ってるだけで、指先が疼いた。
唇に触れたくて、肩を抱き寄せたくて、
でも……その先に進んでしまったら、私は、由依を壊してしまう気がした。

彼女はまっすぐすぎて、怖いくらいに透明だ。
そして、誰よりも傷つきやすい。

それに、初めてだった。
こんなにも誰かを大切にしたいと思うのは。

だから、触れなかった。

いや、触れられなかった。

でも――

あの子は、ちゃんと伝えてくれていたんだ。
手を繋いでくる。腕にそっと寄りかかる。
キスをねだるような目をする。
不安そうに、でも期待してる視線を、何度も、向けてくれていた。

それを私は、無視した。


「……最低だな、私」



ひとり呟いて、天井を仰いだ。


𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄



ふと、エレベーターの前を通りかかったときだった。
社食の方から、二人の声が聞こえてきた。

由依と……土生ちゃん?

何となく、そのまま足を止めてしまった。


「先輩、すごく優しい。ほんとに大事にしてくれてるのは分かる。でも……それが、触れたくないってことと一緒だったら、どうしようって……」


由依の声が震えていた。

心臓が、止まりそうになった。


「……由依……」


ごめん。

そう思った。でも、今さら言える言葉じゃなかった。

ドア越しに、土生の声が続く。



「……由依ちゃん、まだ若いし」

「やっぱ、わがままかな」

「全然。ていうか、もし本気で欲求不満になったら……私が相手してあげよっか?」


一瞬、時間が止まった。

脳内で、何かが焼き切れる音がした気がした。

“欲求不満なら、私が相手してあげよっか?”

ふざけてるのはわかる。
冗談だって、聞いてれば分かる。

でも

その言葉に、由依が動揺してることが、
声の揺れで、息の詰まりで、全部伝わってきた。

……あぁ、私、ほんとに何やってんだ。

自分が一歩踏み出さないうちに、
誰かが代わりに踏み込んでくる。

当たり前だ。
あんなにかわいくて、素直で、誰にでも愛されるような子を、
触れないなんて理由で抱かないなんて


「……もういいかもな」


口から自然と出た言葉は、
自嘲でも、呆れでもなかった。

これはもう、自分に対する決壊だ。

大事すぎて触れられなかった?
それで失うくらいなら、いっそ。

壊してでも、全部奪って、
この手に抱き締めて、
二度と離れられないようにしてしまえばいい――

由依が、誰のものにもならないように。

今夜、私は――