あの夜を境に、私たちの空気はすこし変わった
まだ「好き」とはっきり言葉にし合ってはいないけれど、
それでも、心の距離はたしかに、前より近づいている気がした。
朝、由依がパンケーキを焦がしながら、「理佐のほうが料理上手」とふくれたり。
夜、同じ毛布にくるまりながらNetflixで恋愛リアリティ番組を見て、「ああいうのは無理」と笑いあったり。
時折ふと目が合えば、なんでもない顔をしながら、どちらともなく笑ってしまう。
そういう、たわいもない日々のなかに、"今だけじゃない時間"が積み重なっていくようで、少しだけ胸を撫で下ろした。
(……よかった、戻れて)
安心と不安の境界線で揺れながらも、確かに“いま”を生きていた。
ある朝
「……由依、それ砂糖じゃなくて塩だよ」
「えっ……まじ?」
朝のキッチンに広がる、焦げたパンの匂い。
パジャマ姿の由依が、トーストの上に間違えて塩を振りかけてしまい、それを見て思わず吹き出してしまった
「いや、逆に珍しいでしょそれ。味見しないで思いっきり振る?」
「寝起きに判断力求められても困るんだけど……。ねえ、パン余ってたっけ?」
「あるけど……交換条件」
「えー!なにそれ」
「“理佐は朝から天使すぎてまぶしい”って言ったらあげる」
由依はわかりやすく眉をひそめた後、ふーっと息を吐く。
「理佐は朝から天使すぎてまぶしいですぅ……」
「心がこもってない!」
「心はさっきパンと一緒に焦げました〜」
声が、柔らかな陽だまりの中に弾む。
トースターの「チン」という音と一緒に、笑い声がキッチンに満ちていった。
朝食を食べ終えたあと、由依はソファに倒れ込む。
「……朝って、なんでこんなにだるいんだろ」
「9時間寝てた人のセリフじゃないと思うけど」
「9時間寝たから、体が休息モードから抜け出せないの」
少し呆れた顔をしながら毛布を投げかけると、それをかぶったまま由依はもぞもぞ動きながらうめいた。
「やだなあ、今日は休みだし一日このままダラダラしてたい……」
「私も今日は出かけるつもりなかったけど、洗剤切れてるし買いに行こうよ。散歩がてら」
「理佐一人で行ってくれてもいいんだよ〜?」
「甘えすぎじゃない?」
由依は毛布から片目だけ出して、にっと笑った。
「え、甘やかしてくれないの? 彼女なのに?」
その一言に、動きが少し止まる。
彼女、という言葉。
まだ“仮”でしかない関係。
でも、いまの由依のその表情は、からかっているようで、どこか嬉しそうで。
そんな由依に私はちょっとだけ口元を緩めて、そっぽを向く。
「……あんまり調子に乗ると、洗剤のついでに重い荷物全部持たせるから」
「うっわ、それはだめ〜。今すぐ支度します~!」
由依が毛布をばさっとはねて立ち上がる。
その背中を見ながら、ほんの少しだけ、胸の奥が温かくなった。
(こういうの……ずっと続いたらいいのに)
そう思った自分の心に、驚きながらも、そっと笑った。
――午後。
近所のスーパーで買い物を終え少し遠回りして帰ることにした。
「理佐、アイス買ってきて正解だったね、あっつ〜」
「由依が途中で溶けた脳みそが耳から出そうって言い出したの、まじでヤバかったからね」
「だって!炎天下の中、洗剤買って歩いてるっていう現実が地獄だったんだもん」
ふたりで分け合ったアイスバーの棒を捨てながら、駅前の公園のベンチに腰を下ろす。
風が木々を揺らし、蝉の声が遠くで響いていた。
「ねえ、理佐」
「ん?」
「こうやって歩いてるとさ、“普通のカップル”って感じじゃない?」
「え?」
不意に言われたその言葉に、思わず彼女の横顔を見た。
由依は特に意識するでもなく、空を見上げている。
「仕事してると、感情も時間もぜんぶ演じる方に寄っちゃうでしょ? でも理佐といると、なんか……演じなくていいなって思えるの」
その一言に、心の奥がそっと震えた。
演じなくていい時間。
それは、きっと由依がずっとどこかで欲しかったものだ。
「……ありがと」
自然に、そう言葉がこぼれていた。
由依は少し驚いたように目を見開いたあと、ふふっと笑った。
「お礼言われるようなこと、したっけ?」
「ううん。なんか、そう言ってもらえるのが嬉しくて」
言いながら、私の指先が、由依の小指にそっと触れた。
由依は驚きもせず、そのまま指を重ねてきた。
私たちの指先が、公園の木陰で静かにつながる。
風がそよぐ。
日差しが緑の間を縫うように落ちる。
なんでもないようで、特別な午後だった。
――その夜。
夕食後、キッチンの片付けをふたりで済ませたあと、
ソファに並んで座っていた。
テレビでは、お笑い番組が流れていたけれど、
それほど集中して見ていたわけではない。
時折顔を見合わせて笑ったり、
何も言わずに並んでいるだけだったり。
私が少し眠そうな由依の肩にもたれながら、
静かに思った。
(もし、あと1ヶ月経っても由依の答えが出なくても──)
(私はきっと、それでも一緒にいたいって思ってしまう)
そんな気持ちが、胸の奥に小さく灯っていた。
──そう。
このときのふたりは、まだ知らなかった。
この穏やかで、温かい日々のすぐ先に、
ほんの小さな違和感が忍び寄っていることを──
「……今日、台本読みで出るの少し遅くなるかも」
朝食をとりながら、由依がスマホを見たまま呟いた。
その指は、次々と通知をスクロールしている。
「わかった。帰る時間決まったら連絡して」
「うん……あ、ごめん、ちょっと電話」
由依は立ち上がり、スマホを耳に当てながら部屋の奥へと消えていく。
その背中を、理佐は見送ってから、少し残っていたコーヒーを口に運んだ。
(……仕事の電話、だよね)
耳に残っていた。
その小さな引っかかりが、まだ消えていなかった。
──あの夜、聞こえた「好きだよ」という声。
由依は「ふーちゃん」と話していたと言った。
理佐も、最初はそれを信じていた。……信じたかった。
けれど、最近ふと気づいたことがある。
「ふーちゃん」と電話しているはずの時間──
ふーちゃん本人から、理佐に別件でLINEが来ていた。
「今、ダンスの打ち合わせ中~夜までかかりそう」と。
あのとき。
ちょうどあの夜だった気がする。
(……いや、たまたま、タイミングがずれてただけかもしれない)
そう思いたかった。
でも心のどこかが、うっすらとざわついていた。
その夜、いつも通り並んでテレビを見ていた。
けれど、ときどき、由依のスマホに目がいってしまう自分に気づいてしまった
由依が笑うたびに、どこかほっとする。
それなのに、目の奥には拭えない感情があった。
──数日後の午後。
仕事のあと、少し遠回りして、帰り道にカフェに立ち寄った。
最近お気に入りになった、静かで落ち着いた店。
コーヒーを待つあいだ、スマホを開いた。
(……気にしすぎ、なんだよね。きっと)
メッセージ欄には、由依との会話の履歴。
最近のやりとりは穏やかだった。
すれ違っていた時期を超えて、やっとふたりらしさを取り戻してきた気がしていた。
だけど──
気づけば無意識に、ふーちゃんとのやりとりも開いていた。
そして、あの夜のふーちゃんの送信時間を見て──
胸の奥が、また少し冷たくなる。
(やっぱり……由依が電話していたの、ふーちゃんじゃなかった……?)
わかってしまうと、確信に変わっていく。
淡い疑念が、静かに色づき始めていた。
──その晩。
「ただいまー。……あ、理佐おかえり。先帰ってたんだね」
玄関の扉が開く音。
由依は荷物を置いて、キッチンに顔を出す。
「おかえり。お疲れさま」
「今日さ、台本で結構変更入ってさ……けっこう大変だった~」
「うん、そっか……」
「あれ?どうしたの?」
「え?」
「ちょっと元気ない?」
「……ううん、疲れてるだけ。大丈夫」
由依は一瞬、何かを探るような目をしたが、すぐに笑顔に戻った。
「じゃあ、お風呂先に入っちゃうね〜。汗だく!」
その背中を見送りながら、そっと息を吐いた。
(聞けない……今はまだ)
「誰と電話してたの?」──
それを聞いたときのあの表情。
ふざけたように笑って、「ふーちゃん」と言ったあの一言。
でも、違ったのだ。
あれは、嘘だった。
理由はわからない。
隠してるつもりだったのか、それとも、咄嗟についた嘘なのか。
けれど、確実に「何か」を誤魔化したのは事実だった。
(……誰だったの?)
答えのない問いが、胸の奥で小さな棘になって残った。
──さらに数日後。
由依は夜遅くまで打ち合わせで外出中だった。
理佐は家で洗濯を済ませて、ソファでひと息ついていた。
ふと、インスタの通知が目に入る。
軽い気持ちで開いたストーリーズ。
そこに映っていた。
見覚えのあるレストラン。
そして、そこに──由依の姿が映っていた。
隣にいたのは、見知らぬ女性だった。
2人で笑って話している、その一瞬。
タグもメンションもされていなかった。
けれど、確かにそこにいた。由依が、誰かと。
指が、スマホの画面の上で止まる。
言葉も出ないまま、ただ画面を見つめた。
(この人……誰?)
(なぜ、何も言わなかったの?)
画面を閉じても、心の中のざわめきは消えなかった。
どこかで「またかも」と思ってしまった自分がいて、
それが何よりも、苦しかった。
──気づけば、あの言葉が心の中で繰り返されていた。
「ああ、うん大丈夫ありがとう。好きだよ。」
あれは、ふーちゃんじゃなかった。
じゃあ、誰だったの?
あの「好き」は──誰に向けて言った言葉だったの?
夜の静けさの中。
理佐の手は、スマホを握ったまま、じっと動かなくなっていた。
まだ、何も壊れていない。
でも、すでに何かが、静かにずれていた。
その夜、由依は帰ってこなかった。
「今日は△△さんと台本詰めるって。遅くなるかも。先寝ててね」
そうLINEが届いたのは、夜の9時を過ぎた頃だった。
スマホを握ったまま、ソファに座り込んでいた。
△△さんは私と由依の共通の知り合いで女優さんだ。
──あのストーリーに映っていた女性。
△△さんでもふーちゃんでもなく
面識はないけれど、あきらかに仕事の人じゃない雰囲気だった。
グラスの中の氷がカランと音を立てる。
(……本当に、今△△さんといるの?)
また、疑ってる。
でも、信じられない。
なぜ、あの写真のことを何も言ってくれなかったの?
「ごめん、今日少し遅くなるかも」
──なぜ、誰ととは言わないの?
(言えない理由があるんだよね。……なら、どうして、私には言わないの?)
答えは出ない。
けれど、心の奥にはもう確信に近い感情がひそんでいた。
その夜、ベッドに入らずにリビングのソファで眠った。
どこか体を投げ出したくなるような、重い疲れに包まれながら。
──翌日。
朝、目が覚めたときにはすでに由依はいなかった。
キッチンには、由依の走り書きが置かれていた。
「朝バタバタしてごめん!コーヒーだけ淹れといたよ〜
今日も夜ちょっと遅くなるかも!晩ごはん適当に食べてね」
コースターの上のマグカップはすでに冷めていた。
ぬるい液体を口に運びながら、理佐は無意識にスマホに目を落とした。
メッセージのやりとりは、淡々と続いている。
でもその“やりとり”の裏にある“何か”が、もう見え始めていた。
(このままじゃ、たぶん、私……聞いてしまう)
「誰だったの?」
「なんで嘘ついたの?」
「……私じゃなかったの?」
けれど、それを言った瞬間、
何かが壊れてしまう気がして、まだ口にできなかった。
──その日、偶然は、ほんとうに突然だった。
理佐は予定が急遽キャンセルになり、午後はまるまる空いた。久しぶりに時間ができたその足で、近くのカフェへ向かった。
入口のドアを開けると、すぐに柔らかいコーヒーの香りが鼻をかすめる。
客も少なく、落ち着いた空間だった。
それでも──目の端に入ったその“姿”を、見間違えることはなかった。
奥の窓際。
淡いグレーのキャップを目深にかぶって、
少し猫背でコーヒーを飲んでいた女性。
その向かいに座る、明るい茶髪の女性。
目元にかかる前髪が、揺れるたびに由依の表情を隠している。
──楽しそうだった。
相手の話にくすくす笑って、テーブルの端に置いたスマホも見ず、
身を乗り出すようにして由依が話していた。
その笑い方が──あまりにも自然だった。
(なんで……)
頭が真っ白になる。
一瞬、声をかけようかと思った。
けれど、足が動かなかった。
自分の心が叫びそうになった瞬間、思わず店を出てしまっていた。
街の雑踏の中に出た瞬間、呼吸が浅くなる。
鼓膜の奥で、自分の心臓の音だけがやけに響いていた。
(なんで……そんな顔、私の前では見せてくれないの)
(あのときの「好きだよ」──今、目の前の人に言ってたの?)
(……私じゃ、なかったの?)
スマホを握る手が震えていた。
でも、何も送れなかった。
連絡も、問いただすことも、できなかった。
ただ──深く、深く傷ついていた。
──その夜。
由依は、なにごともなかったように帰宅した。
「ただいま〜。ごめん、今日も遅くなっちゃって」
いつもの声。
いつもの由依。
でも、胸の中にはもう、あの“笑顔”がこびりついていた。
「ねえ、……今日、どこ行ってたの?」
自分の声が、自分じゃないようだった。
由依が一瞬だけ動きを止めたのを、見逃さなかった。
「……ん? ああ、仕事でちょっと外回りしてて……ごめん、報告忘れてた?」
「△△さんと一緒だったんじゃないの?」
「え……? あ、そう。午前中は……ね」
明らかに言い淀む瞬間。
その一秒の“間”が、理佐の中で全てを確信に変えた。
「じゃあ、午後は誰といたの?」
由依の顔から、さっと笑みが消えた。
そして──何も、言わなかった。
言葉が降りてこない沈黙のなかで、
私はただ静かに由依を見詰めることしか出来なかった
そして──もう、聞いてはいけないと、どこかで分かっていた。
けれど、もう遅かった。