お試しの「3ヶ月」が始まったはずなのに、初めの一歩がうまく踏み出せなかった。
何度もスマホを開いては閉じて、由依の名前をタップするたびに、指先が止まる。
(どんなふうに送ればいいんだろう……)
今日は"ありがとう"も、"楽しかったね"も、もう遅い気がした。じゃあ、"また会いたい"って?
そんなこと、急に送っても重くない?
頭の中がグルグルと巡る。
返事が来なかったらどうしよう。
いや、そもそも返事が来なかったら終わるような関係じゃ、試す意味なんてないのに。
それでも、不安の方が勝ってしまうのは、自分の弱さだと分かっていた。
その日、久しぶりに外に出た。
仕事も休みで、気晴らしに街を歩く。目黒川沿いのカフェに寄ろうかと、ふらふら歩いていたときだった。
「……あれ、理佐?」
ふいに後ろから声がして、振り返ると
そこには志田愛佳がいた。
黒いキャップに白T、ラフなデニム姿。
変わらず飾らない彼女は、ニコッと笑って手を振ってくる。
「久しぶりじゃん。って言っても最近あったか(笑)どう元気してた?」
「……愛佳?」
一瞬驚いたが、その懐かしい空気に、思わず肩の力が抜けた。
⸻
カフェにて。
窓際の席。アイスコーヒーを一口飲んだ愛佳が、じっと私のことをみてくる。
「っ、、あのなに?」
「どうなの? 由依とは。」
思わずむせかけた。
「……なんでいきなりそこなの?」
「なんとなく。あの日、あの空気見てたらさ、分かるよ。あんた、めちゃくちゃ緊張してたじゃん」
「……やっぱ分かってたんだ」
「うん。ていうか、由依も緊張してたよ。顔に出てた」
「そう……だったんだ」
ふっと息をつく。愛佳はストローをくるくる回しながら、続けた。
「連絡、してないでしょ」
「……してない」
素直に認めると、愛佳は大げさにため息をついて、肩をすくめた。
「はぁー……理佐って昔からそう。好きなくせに、自分からいかない。怖いの分かるけどさ、逃げてても意味ないでしょ」
「逃げてるつもりは……」
「してるよ。してないって言いたいなら、今すぐ連絡してみなよ」
スマホをテーブルに置かれて、無言で見つめ合う。
「……今?」
「今。返信来るかどうかじゃないの。気持ちを伝えることが大事なんだよ」
愛佳の言葉は、まっすぐだった。
私はしばらく黙って考えていたが、それも焦れたいなと思いやがてスマホを手に取った。
ゆっくりと、LINEの画面を開く。
そこには、数日前の由依の「今日はありがとう。またね」の文字が、ぽつんと残っていた。
(またね、か……)
私ははゆっくりと文字を打ち始めた。
⸻
由依、
あの夜から、色々考えてた。
本当はすぐにでも連絡したかったけど、どうしたらいいかわからなくて。
でも……もしよかったら、また会えないかな。
特別なことじゃなくていい。
ただ、話したいなって思った。
⸻
文章を打ち終えると、緊張で手が震えた。
でも、送信ボタンを押したとき、胸の奥にほんの少しだけ、明かりが灯るような気がした。
「……送った?」
「うん」
愛佳は笑って、アイスコーヒーを持ち上げる。
「よくできました。じゃあ、ごほうびにスイーツでも頼もうか?」
「……子ども扱いしないで」
「はいはい。恋する乙女だもんね」
理佐は少しだけ赤くなった顔を隠すように、カップを持ち上げた。
スマホを伏せると、カップの中の氷がカランと音を立てた。
愛佳は少しだけ目を細めながら、理佐の横顔を見つめていた。
「……でさ」
「うん?」
「本音、聞いてもいい?」
「……なに?」
「由依のこと、本当にまだ好きなんでしょ?」
一瞬、視線を落とした。
曖昧な笑みでごまかそうとしたけれど、愛佳はそれを見逃さなかった。
「その顔が答えだな」
「……ずるい」
「昔からずっと思ってた。理佐の由依にだけ不器用って、なんでそんな分かりやすいのに自分で気づかないんだろうって」
「……気づいてたよ。でも、それを見せるのが怖かったんだよ」
ぽつりとこぼれた声に、愛佳は驚いたように目を丸くした。
「そっか。……ちゃんとそうやって言えるようになったんだね」
「うん。……変われたかどうかはわからないけど、昔よりは、ちゃんと向き合おうとは思ってる」
「由依、待ってると思うよ。ああ見えて、あいつも結構めんどくさいタイプだからさ。自分から行くより、来てほしい派でしょ?」
「……わかる」
ふたりはふっと笑い合う。
その笑いには、どこか10代の頃の空気が混じっていて、懐かしくて、少し切なかった。
「でも理佐。焦らなくていいからね。大事なのは、由依に好かれることより、理佐がちゃんと理佐のままでいることだと思うよ」
「……どういう意味?」
「たぶんさ、今の由依は、理佐に好かれる自分より、自分にまっすぐ向き合ってくれる理佐を求めてる気がするんだ」
愛佳の言葉をゆっくり噛みしめた。
ちゃんと私のままでいるか、
それが、いちばん難しいことだったかもしれない。
「……私、ずっと好かれるようにって頑張ってたかも」
「うん。わかる。でも、それは本当の恋じゃないと思うんだよね。なんていうか、弱さもズルさも出せるのが、好きってことじゃん」
「……愛佳って、昔よりちょっと大人になったね」
「失礼な。昔から大人だったわ」
「いや、昔はあいつらマジうぜーってすぐ帰る人だったじゃん」
「おい、言いすぎだろ」
ふたりとも笑った。
ああ、こうやって話せる友達がいるって、いいな。
ふと、そんなことを思った。
「ありがとね、愛佳」
「なにが?」
「なんか、全部言ってもらえて……すごくスッキリした。背中、押してもらった気分」
「押したっていうか、蹴ったような気もするけど」
「それでも、感謝してるよ」
そう言って、私は微笑んだ。すると愛佳はそれを見て、ちょっと照れたように目を逸らす。
「……じゃあさ、もしその3ヶ月で進展あったら、報告してね」
「え、いる?そういう報告」
「そりゃいるでしょ。私、ふたりのこと、案外昔から応援してたんだから」
「……案外、って何」
「そゆとこ。そういうとこがかわいいんだよ」
からかうような、でもどこか優しい言葉に、理佐の頬がふわっと赤く染まった。
━━━━
その夜ひとり、部屋のソファに座っていた。
テレビもつけず、カーテンも閉めきった静かな空間。
手の中のスマホを、何度となく握りしめては、ため息をつく。
(返事、来ないかな……)
LINEを送ってから、もうすぐ3時間。
通知音が鳴るたびに胸が跳ねるが、違う名前が表示されるたびに落胆する。
そんなときだった。
──ピロン。
今度こそ、間違いなく“由依”の名前だった。
画面を開く手が少しだけ震える。
由依の名前の横には、淡いグリーンの吹き出しがぽつんと浮かんでいた。
⸻
ごめんね、返信遅くなっちゃって。
ちょうど今日、撮影が終わって今さっき帰ってきたところ。
……連絡、嬉しかった。
会えるよ。今夜、よかったら来る?
⸻
(……今夜?)
思いがけない言葉に、心臓が跳ね上がる。
驚きと同時に、胸の奥がじんわりと熱くなった。
返信は、すぐに打った。
⸻
行きたい。
すぐ準備して向かうね。
⸻
送信を終えて、立ち上がる。
大きく深呼吸をひとつ。
震える手で上着を羽織って、玄関のドアに手をかけた。
外はまだ肌寒い春の夜だった。
でも、今の私の心には、じんわりと温かい光が灯っていた。
⸻
由依の家
玄関の前に立って、チャイムを押す前にもう一度だけ深呼吸した。数秒後、「カチャ」と鍵の開く音。
ドアの隙間から、ゆるく髪を結んだ由依が顔を覗かせる。
「……来てくれて、ありがと」
「ううん。こっちこそ、呼んでくれて……」
小さな声のやりとり。
室内に一歩踏み込むと、やわらかなアロマの香りと間接照明の灯りが迎えてくれた。
ソファの隅に座っていた由依は、薄手のニットにブランケットをかけていて、どこか疲れたような顔をしていた。
私は上着を脱ぎながら、そっと由依の様子を伺う。
「……あの、やっぱり疲れてるなら無理させちゃったかも。私、帰ったほうが──」
そう言いかけた瞬間。
「理佐」
由依がピタリと視線を合わせてきた。
「私と、いたくないの?」
その声は、決して強くなかったけれど、まっすぐだった。
ハッとして口を閉じる。
「思ってもないこと、言わないで」
静かに、でも確かに、由依はそう言った。
その目の奥に、少しだけ揺れる寂しさと、強がりが見えた気がした。
理佐はソファの反対側にゆっくりと腰を下ろすと、小さく首を振った。
「……違うよ。いたいよ、ずっと。由依といたい。けど、無理させたくなくて……」
「それなら、何も言わずにいてくれた方がよかった」
由依は膝にかけたブランケットの端をぎゅっと握ったまま、小さく息を吐いた。
「ごめん……」
理佐のその一言に、ふっと力が抜けたように由依がもたれかかる。
肩がほんの少し触れた。
言葉よりも、静かなその距離が、ふたりの心をじんわりと溶かしていく。
「……来てくれて、本当はすごく嬉しかった」
その言葉に、私はそっと目を閉じた。
ここにいていい。
ようやくそう思える夜だった。