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『紅の刻(くれないのとき)』
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その夜、風は冷たかった。春のはずなのに、体の奥まで寒さが沁みるようだった。
由依は帰り道、一本だけ遠回りの小道を歩いていた。家へ急ぐ気分には、なれなかった。胸が少しだけ、ざわついていたから。
──そこで、出会った。
薄暗い街灯の下。洋館の古びた塀の上に、誰かが座っていた。
黒いコートのようなマント。長く艶やかな黒髪。
月明かりがその頬を照らし、白い肌がやけに印象的に見えた。
『……こんばんは』
ふいに声が出た。自分でも驚くほど自然に。
その人は、ゆっくりと顔を向けた。
「……人間に話しかけられるなんて、久しぶり」
その言葉の意味を、由依はすぐには理解できなかった。
『え?』
「なんでもないよ。こんな時間に歩いてる君が、珍しくて」
それは、笑っているようで笑っていなかった。
『……私、小林由依。高校生です。帰り道だったんだけど……』
「理佐。渡邉理佐。夜が好きで、ただ座ってるだけ」
それが最初の会話だった。
けれど、不思議と忘れられなかった。
夜の空気に溶けていくような声。
でも確かに、どこかに刺さって残るような気配。
その夜、由依の心の奥に、何かが静かに芽生えていた。
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その日を境に、由依は夜の遠回りが“日課”になった。
理佐は毎日いるわけではない。
でも、会えた日はなぜか体が軽くなって、心が弾んだ。
「……また君か。ふふ、変な子」
『変って言わないで。あなたに会いに来てるのに』
「……嬉しいよ。こんな風に、誰かに待たれるの、初めてだから」
理佐は笑うとき、ほんの少しだけ口元を隠す癖があった。
それが気になっていた。ふと見えた牙のようなものも。
けれどその謎より、会話の余韻が心に残った。
『あなた、昼間は何してるの?』
「……眠ってる。夜にしか活動できないの」
『えっ……夜型すぎない?』
「……そうかもね。でも私は、夜のほうが、生きてるって実感するんだ」
それは、どこか寂しげで、美しい言葉だった。
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ある日の夕暮れ、由依は学校の掃除中にガラスで指を切った。
慌ててハンカチを押し当てたが、血が止まらなかった。
「……どうしたの、それ」
声をかけてきたのは、たまたま近くにいた理佐だった。
『ちょっとガラスで……』
その瞬間、理佐の表情が固まった。
瞳が……赤く、光った気がした。
「隠して。今すぐ。お願いだから……!」
『理佐?』
「ダメ……見せないで……!」
彼女の息は荒く、身体は震えていた。
怖い――けれど、何よりも、その姿が痛々しくて。
理佐は、そのまま背を向けて走り去った。
由依は立ち尽くしたまま、
自分の手の中の、赤い色だけを見つめていた。
──理佐は、普通の人間じゃない。
それを、ようやく知った。
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日が落ちた夜、由依は洋館の前に立っていた。
理佐がいつも座っていた塀の上に、彼女の姿はなかった。
けれど、扉は少しだけ開いていた。
中に入ると、空気が一気に変わった。冷たく、静かで、時間の止まった世界。
礼拝堂のような広間の中心に、理佐がいた。
黒い服をまとい、マントは脱ぎ捨てられ、
何かと戦っているように、ひとりで胸を押さえていた。
『……理佐』
「来ないでって言ったよね……」
『来ないわけないよ』
「私、君を傷つけるかもしれない。
食べたいって、思ってしまう自分が……怖い」
『怖くなんかない。私は、あなたを信じてる』
「どうして……なんでそんなに優しいの?」
『あなたが、私を好きになってくれたから。
だから、私も好きになった。』
理佐の手が、震えながら由依の頬に触れる。
赤い瞳に、涙が溢れていた。
『……ねぇ、理佐。』
「……なに?」
『私は、あなたに抱かれて死にたい』
「……バカだよ、君は」
理佐は静かに、ゆっくりと由依を抱きしめた。
そのまま、腕の中で――
──ガブッ
由依の首筋に牙が沈む。
血の味に、理佐の喉が震える。
『っ……あ……』
小さな声が漏れ、身体が力を失っていく。
「由依……ごめん、ごめんね……!」
理佐は名前を何度も呼んだ。
けれど、その声は、もう届かない。
月が紅に染まり、由依が理佐の腕の中で、静かに崩れ落ちた。
彼女の温もりが、理佐の胸の中で少しずつ消えていく。
その瞳は、もう閉じられていて。
その唇は、もう名前を呼ばない。
「私を、愛してくれてありがとう。君のすべてを……」
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──照明がスッと落ちる。
……静寂。
やがて、現れたのは舞台の稽古場。
スポットの明かりが切り替わり、テーブルに座る3人の姿が浮かび上がる。
◆脚本家・藤吉夏鈴
◆俳優・小林由依
◆俳優・渡邉理佐
夏鈴「っていうのを、今度の企画でやりたいんですけど」
由依『発想が面白いね。でも、なんで私の名前?せめて仮名にしてよ』
理佐『私も思った。なんで“吸血鬼”が私なの?』
夏鈴「なんか……この方が臨場感あるじゃないですか」
由依『臨場感って……それにしてもさ、あのセリフ……』
理佐『“私は、あなたに抱かれて死にたい”……』
由依『自分で言ってて泣きそうになったんだけど……』
夏鈴「いい感じでしたよ。まさに“愛と破滅の境界”って感じで」
理佐『はぁ……重たい役だった……でも、やってよかった』
由依『……うん、なんか、あの世界の彼女たちのこと、忘れたくないかも』
夏鈴「それは嬉しいなぁ。じゃあ、仮タイトルはそのまま――」
『紅の刻(くれないのとき)』
──そして、彼女たちの会話は日常に戻っていく。
だけどその台本の中にいたふたりの“命の記憶”は、きっとずっと――残っている。
──終幕。