午前3時半。
東京湾岸の廃倉庫に、理佐は一人で足を踏み入れた。
風が吹き抜ける無人の空間。鉄骨がきしむ音が、銃声のように鋭く響いた。
懐中電灯を構えると、奥の影に人影が浮かぶ。
「……久しぶりだな、“警察さん”」
そう呟いたのは、あいつだった。
薄暗い中でも、その眼差しは昔と変わらず鋭く、だがどこか静けさを孕んでいた。
「……一人で来たのか?」
「ええ。応援も追跡も切りました。あなたと、話をしに来たんです。私個人として」
「個人ね……今さら、そう言い訳する気か」
足元の煙草を踏み消すと、拳銃をホルスターから抜き取った。
(撃つつもり……? いや――)
だが、それを理佐に向けることはなかった。
「これは保険だ。……娘には手を出させない。そのために俺が“死ぬ”ならそれでいい。お前たち警察にとっても、都合がいいだろう」
「違います」
理佐は、はっきりと否定した。
「私は“あなたを殺して正義を示す”ために来たんじゃない。
あなたを“生かす”ことで、あなたの娘――由依を守るために来たんです」
「……何?」
「本部の上層部の中に、“組”と繋がってる内通者がいます。
あなたの命も、由依の命も、それによって“切り札”として取引されようとしてる。
私はそれを止めたい。……あなたの証言が必要です」
あいつの目が、一瞬だけ動いた。
「……なるほど。俺を泳がせていた理由はそれか。
だが証言すれば、俺は確実に終わる。組にも、警察にも殺される」
「分かっています。でも、だからこそ、あなたにしかできないことがある」
理佐は歩み寄り、静かに膝をついた。
「由依さんが、あなたを守ろうとした。
今度はあなたが、彼女を守る番です」
あいつは目を細めた。
「……あの子が、泣いたか?」
「……はい。あなたのために」
沈黙が落ちた。
だが、その静けさを破ったのは、銃声だった。
パン――ッ!
壁際に火花が走る。
理佐はすぐさまあいつを庇って伏せた。
「……誰かが撃った!?」
暗闇の奥から、複数の足音。
潜伏していた“本部の処理班”が、倉庫を包囲していた。
無線が、理佐の耳元でざらつく。
「渡邉理佐、現行命令に背いて潜伏犯を囲っている。これより拘束に入る。射殺もやむを得ず」
「……くそ……!」
立ち上がった。
「娘を……守れるのか?」
「ええ。……あなたがここで逃げなければ」
「――任せたぞ、“由依を頼む”」
次の瞬間、あいつは銃を天井に向けて撃った。
「オイ! こっちだ――こっちにいるぞ!」
彼は自ら囮となって、処理班の注意を引きつけた。
そして走り去る。その背中を理佐は、叫びそうになるのを押し殺して見送った。
「……絶対に、生き延びてください」
◇
その頃、由依は――
老婦人の家で、ぽつりと窓の外を見つめていた。
ふと、掌に覚えのない傷があることに気づく。
それは、あの夜――理佐が自分を庇って倒れ込んだとき、無意識に爪を立ててしまった跡だった。
「……どうか、無事でいて」
彼女の祈りが、夜明けの空へと溶けていく。
◇
夜が明けきるころ。
理佐は、倉庫から離れた裏道に隠れていた。
耳元の無線機から、驚くべき情報が流れてくる。
「小林△△、拘束不能。追跡中に車両ごと海へ転落……生死不明」
「……以後、潜入捜査官・渡邉理佐の身柄も凍結処分とする。
全データ抹消を命ず」
静かに、理佐は目を閉じた。
正義も、任務も、組織も。
どこまでも彼女から遠ざかっていく。
だがそれでも、守りたかったものが、たったひとつ残っている。
小林由依。
彼女だけが、今、理佐の生きる理由だった。
早朝の薄明かり。
老婦人の家。
静まり返った部屋に、ひとつだけ動く影があった。
由依は、置かれていた携帯を手に取り、そこに残された未送信メッセージを見つけた。
「由依へ。
もし私が戻らなかったら、この家を離れてください。
あなたはこれから先を、生き抜かなきゃいけない人です。
どうか、幸せになって。
あなたを、心から愛しています。――理佐」
指先が震えた。
「……そんなの、ずるい」
思わず、声に出た。
涙ではなく、怒りでもなく、ただ――悲しかった。
“守るために離れる”なんて、そんな愛し方、許されていいはずがない。
由依は、そのまま足を動かした。
もう一度だけ、自分の意思で、彼女に会いたい。
逃げるんじゃない。迎えに行くの。
◇
その頃、理佐はすでに海沿いの橋を歩いていた。
警察の追跡は本格化していた。
“渡邉理佐”という名前は、あらゆる記録から消去され、
彼女自身、すでに「この国に存在しない人物」として処理されようとしていた。
それでも――
(いい。もう、警察じゃなくても。捜査官じゃなくても。
ただ、“あの人を守りたい”という想いだけが、私をここまで歩かせてくれた)
小さな港町の駅前。
理佐は、古い公衆電話から最後の連絡を入れようとしていた。
(きっともう、由依には会えない)
そんな覚悟で指をかけた、その瞬間だった。
「――理佐さん!」
声が、風を切って響いた。
振り返ると、由依が全身で走ってくるのが見えた。
「なんで……! ここに来たら危ないって……!」
「もう、どうでもいい!
わたし、“安全”の中であなたのいない世界に置いてかれるくらいなら、全部捨てる!」
肩で息をしながら、由依は理佐の前で立ち止まった。
「わたし……生きていくの、あなたと一緒じゃなきゃ、意味ないの」
「でも、私には……もう何も残ってない。捜査官としての身分も、居場所も、過去も……」
「――わたしが、あんたの居場所になる」
はっとして、理佐は目を見開いた。
「……私が、あなたを守る番だよ。
だってあなた、あの時私を抱えて逃げてくれた。
じゃあ、今度は私がその手を、離さないって決めたの」
静かに、理佐の目に涙が溜まっていく。
「……由依……」
「一緒に逃げよう。どこまでも。
もう“正義”とか“義務”とか、そんなもの全部置いて、わたしたちの人生を、ふたりで始めようよ」
言葉を返す代わりに、理佐はそっとその手を取った。
細くて、傷ついて、それでも確かに温かい手。
この手だけが、今の私を生かしてくれる。
「……ありがとう」
「生きよう、理佐さん。
罪を背負っても、過去に傷があっても、
一緒に、ちゃんと生きていこう」
抱きしめた。
ふたりは、誰にも見つからない小さな街の片隅で、
その一瞬だけ、すべてから解き放たれていた。
◇
その直後。
とある警察署の一室で、ある男がファイルを机に叩きつけた。
「……小林△△、死亡未確認? おかしいだろ。誰が操作してる?」
「……それが……現場記録も、証拠映像も、全部“上”からロックがかけられています」
男は小さく吐き捨てた。
「――誰かが、あの二人を“逃がした”な」
その日を境に、“渡邉理佐”も“小林由依”も、警察の記録から静かに姿を消した。
だが。
誰かが目撃していた。
――地方の小さな漁村。
――夜明け前、並んで手をつないで歩く二人の女。
その顔を覚えていた人は誰もいなかった。
だがその背中には、確かに“生きようとする人間の強さ”があった。