由依が目を覚ましたのは、ほんの数分前だった。
それなのに、外では黒い車のエンジン音が止まっていた。

理佐は由依の枕元に膝をついたまま、そっとその瞳をのぞき込んだ。

「由依……ごめん、今は説明してる時間がない。すぐにここを離れなきゃ」

「……理佐さん……ここは……?」

「安心して。あなたは安全な場所にいる。でも、長くはいられないの」

由依はまだ顔色も悪く、意識も朧げだった。
けれど、その目だけは、かすかに揺れている。

「ねえ……夢じゃなかったの……?」

「夢じゃない。あなたが目覚めたこと、それが……本当に奇跡だよ」

その言葉とともに、理佐の声が震える。

「でも……私……何が起きたのか、ちゃんと覚えてない」

理佐は一瞬だけ目を伏せた。そして、言った。

「思い出さなくていい。……全部、私のせいだから。
私があなたの隣にいながら、守れなかったから」

「違う……理佐さん……わたし……」

由依が何かを言いかけたそのとき――

ガシャッ

小屋の外、鉄の扉を何かが強く揺らす音が響いた。

理佐はすぐさま銃を手に取り、由依をそっと抱きかかえる。

「……絶対に、あなたを渡さない。どこまでも連れて行く」



裏口からの脱出。
理佐はバイクではなく、あらかじめ用意しておいたジープに乗り込んだ。
助手席に由依を乗せ、毛布で包む。

「……ちょっとだけ、目を閉じてて。すぐ、遠くへ行くから」

「……うん」

エンジン音とともに、小屋を離れた直後。
数人の男たちが小屋に突入してくる姿が、バックミラーに映った。

(間に合った――)



国道から外れた山道を抜け、
理佐はとある民家へと車を停めた。

そこは、元・警察関係者の隠れ家だった。
かつて捜査の中で理佐が救った老婦人が、今でもひっそりと住んでいる。

「理佐ちゃん……その子が、あの“蓮花”の娘さんかい?」

「はい。……お願いがあります。数日だけ、ここに彼女を預かってもらえませんか」

「……わかったよ。あんたが頭を下げるなんて、相当なことなんだね」

老婦人は由依を部屋に招き入れ、
温かいお粥と、薬を差し出した。

その夜、理佐は隣室で眠らずに見張っていた。
由依を誰にも渡さないために。



夜明け。

由依は目を開けて、天井を見つめたまま、ぽつりとつぶやいた。

「……ねえ、理佐さん」

「起きた? 体調は?」

「……あなたが、わたしを……連れて逃げたの?」

「うん。そうしなきゃ、あなたはまた命を狙われていた。
だから私は、警察も、過去も全部捨てて……今ここにいる」

由依は、ゆっくりと目を伏せた。

「じゃあ……今のあなたは、何者なの?」

理佐は、微笑むように苦しく笑った。

「――ただの、あなたを好きな人。
……それだけの、何の肩書きもない女だよ」

その答えに、由依の目から涙が流れた。

「……それだけで、よかったのにね。
最初から、それだけで……よかったのに」

ふたりは見つめ合ったまま、言葉を失った。

そして――

老婦人の家の電話が鳴った。

それは、何年も鳴ったことのない、古い固定電話。

理佐の背筋が凍る。

「……誰にもこの場所は教えてない。
なのに、どうして――?」

受話器を取ると、低い声が響いた。

「おまえが守ってる女に伝えろ。
あいつは、今夜、“娘の代わりに死ぬ”と覚悟を決めた」

「……あいつは、おまえのせいで動き出した。
残された時間は、あとわずかだ」

電話は、そこで切れた。

理佐の手が震えた。

(――あいつが、動いた?)

そして由依は、ふと顔を上げて理佐の横顔を見た。

「……お父さんが、動いたの?」

理佐は、黙って頷いた。

由依の中に、眠っていた記憶の一部が
ゆっくりと、少しずつ、戻り始めていた。
夜。
理佐は受話器を置いたまま、手を強く握りしめていた。
古い固定電話の余韻が、まだ部屋に残っているようだった。

「……どういうこと?」
由依の問いかけは、恐怖でも怒りでもなかった。
ただ――“知るべきだ”と、自らを奮い立たせた声だった。

理佐は静かに答えた。

「あなたのお父さんが、警察に接触しようとしてる。
それも、“あなたを助ける代わりに、自分を引き渡す”条件で」

由依の唇が震える。
何かを言いかけて、でもその言葉がうまく形にならなかった。

「それって……死ぬってこと?」

「……可能性はある」

沈黙が落ちた。
重く、沈んだその空気の中で、由依はかすかに頭を横に振る。

「……そんなの、いやだ」

「由依……」

「私、あなたを責めてきたのに。
嘘をつかれて、裏切られたって思って……でも一番裏切ってたのは、私だったかもしれない」

由依は震える声で、続けた。

「“守られてる”って、本当はずっとわかってた。
でもそれを信じたら、全部壊れてしまいそうで……
あなたが私に近づいた理由が“任務”だったって思いたくなかった」

理佐は、首を振った。

「違うよ。任務なんか、すぐにどうでもよくなった。
私は……あなたが笑ってるのが嬉しかった。
肩を並べて、何気ない夜を過ごせるのが、嬉しかった。
それだけだったんだ」

ぽろり、と。
由依の目から、涙が一粒落ちた。

「だったら……お願い。
もう誰も死なせないで。
わたしが犠牲になるとか、あの人が代わりになるとか、そんなの、やめてよ」

理佐は、震える指先で由依の頬を拭った。

「……わかった。必ず、止める。由依のお父さんも、あなたも、誰も失わない」

「……嘘つかない?」

「うん。二度と、あなたを泣かせるような嘘はつかない」

そう言って、理佐は立ち上がった。
ポケットの中にしまってあった、小さなメモ用紙を取り出す。

それは――かつて由依の父が使っていた、連絡用暗号の走り書きだった。

「……見つけるよ。たとえすべてを敵に回しても」



同時刻。
東京湾岸の古い倉庫跡地。

そこに、男がひとり、静かに佇んでいた。
小林正勝。かつて“極道”と呼ばれ、いまはその影の世界から姿を消していた男。

彼は、娘の消息を聞いてから、ずっと迷っていた。

だが――
「由依が傷ついた」と聞いたその瞬間、
すべての感情が彼を突き動かした。

「俺が死ねば、全部終わるならそれでいい。
娘は、俺の罪の上に立って生きる必要はない」

煙草に火をつけて、一口。

「……だが、最後に一度だけ、顔が見たい」

彼はそうつぶやいた。

その影の奥で、すでに警察の“処理班”が動き始めていることなど、知らずに。



夜明け前。
理佐は防弾ジャケットを身にまとい、拳銃と無線機を手に持った。

由依はベッドから起き上がり、その姿を見つめる。

「……行くんだね」

「うん。絶対に、あなたのお父さんを守って帰る。
そして、あなたを“もう一度だけ笑わせる”ために」

「待ってる」

「信じて」

由依は、うなずいた。
そして、ふたりは――初めて、躊躇なく唇を重ねた。

何も言わなくても、伝わった。
何も約束しなくても、互いの中に“帰る場所”があると、信じられた。

理佐は、踵を返して走り出す。

これが、最初で最後の――
本当の意味での、彼女自身の“任務”だった。