数日後、雨の気配が残る夕暮れ。
理佐はふたたび「珈琲 蓮花」の扉をくぐった。

カラン、と鳴る鈴の音。
見慣れないものなのに、なぜか懐かしい。

「……あ、来てくれたんですね」

奥から現れた由依は、どこか嬉しそうに微笑んだ。
髪を後ろで緩く束ねた姿が、前よりも柔らかく見えた気がした。

「……なんとなく、また来たくなって」

理佐は自然とそんな言葉を口にしていた。

席に案内され、ブレンドを注文する。
この前よりも、視線が重なる時間が少しだけ長くなった気がした。

静かな時間が流れる。
理佐は、指先でカップをくるくる回しながら、由依の動きを目で追っていた。

(……何を考えているんだろう)

ときどきふっと、由依の表情に影がさすことがある。
それはほんの一瞬のことで、見過ごしそうになるほど小さなもの。

でも、それに気づいたとき、理佐の心はざわついた。

カウンターの向こうで、グラスを拭いていた由依がふと、口を開いた。

「理佐さんって……不思議ですよね」

「え?」

「なんとなくですけど。すごく距離があるようで、近い気もする。……そういう人、あまりいないから」

理佐は少し笑った。

「あなたも、そうだと思いますよ」

由依は一瞬きょとんとして、すぐにふっと笑った。

「……じゃあ、お互いさまですね」

そして、少しだけ間を置いてから、静かに続けた。

「私は……人と深く関わるの、得意じゃないんです」

理佐はその言葉を、胸の奥でゆっくり反芻した。

(得意じゃない、か……でも、それでもこうして)

「こうして話してくれてるってことは……私が例外ってことですか?」

不意に言葉が口をついて出た。
由依は目を見開いたまま、少しだけ頬を染めた。

「……そうかもしれない、ですね」

その言葉の照れくささを隠すように、由依はカウンターの奥に視線を逸らした。
理佐の胸に、小さな火が灯った。

──こうして少しずつ触れていく時間が、何かを変えてしまいそうで。
でも、もうその流れを止めることもできない。



閉店間際。
店の灯りが一段と柔らかくなり、客は理佐ひとりだけになっていた。

「雨、また降ってきたみたいですね」

理佐が窓の外を見ながら言うと、由依が傘を持ってやってきた。

「駅まで、送ります。……って言っても、傘貸すだけですけど」

「ありがとう。でも、由依さんは?」

「私は……ここが、家なんで」

一瞬、理佐の中でなにかが引っかかった。
でも、深くは聞かなかった。

由依は小さく笑いながら、傘を差し出した。

「また……来てくれますか?」

「……はい。きっと」

受け取った傘は、少しだけ花の香りがした。

それが彼女の香りだと気づくのに、そう時間はかからなかった。

夜の空気は、雨に洗われたあとの匂いを残していた。
その日の喫茶「蓮花」は、いつになく静かだった。

理佐は、傘を持たずに現れた。

「雨、やむと思って……」

カウンターの向こうで、由依が少しだけ笑った。

「理佐さんって……案外、そういうところあるんですね」

「どういうところですか」

「計画的に見えて、ちょっと抜けてるところ」

理佐は肩をすくめて、仕方なく微笑んだ。
けれど、その何気ない会話が、妙に心地よくて。

(不思議だな……この空気)

由依のいる空間は、どこか異質だ。
街の喧騒と、感情の騒がしさから切り離された、ひとつの小さな静寂。

理佐はそれを“任務の対象”としてではなく、“自分のための居場所”として感じはじめていた。



コーヒーを飲みながら、理佐はぽつりと呟いた。

「もし、すべてのことを話さなきゃいけない関係しか、築けないとしたら……生きるのって、苦しくなりませんか」

由依は、拭いていたカップの手を止めて、そっと視線を向ける。

「……理佐さんは、何か隠してるんですか?」

その問いに、理佐の心がわずかに揺れる。
けれど、それは由依も同じだった。

(あなたも、何かを隠してるように見える)

ふたりは、そのまま沈黙した。

それが不自然でなかったのは、会話の代わりに、静かな呼吸が流れていたからだった。

やがて、由依がぽつりと話し始める。

「この店……父が作ったんです。私が引き継いだのは、四年前」

「……そうだったんですか」

理佐は、驚いたような、どこか意外だったという表情を浮かべた。

「誰にも言ってないんです。……父のこと。だから、これを言うのは……」

言いかけて、言葉を切った。
その沈黙の中に、深く沈んだ記憶の影があった。

「……やめておきます。ちょっと昔の話だから」

由依の目に、微かに過去の影がにじんでいる。

理佐は、その影に手を伸ばしかけて、けれどやめた。

(今、無理に聞いたらきっと、距離ができる)

だから彼女はただ、少し笑っただけだった。

「……話したくなったら、いつでも聞きますよ」

そう言った理佐の声は、静かだったけれど、どこか真っ直ぐで。
由依は、ほんの少しだけ唇を噛んで、目を伏せた。

「……ありがとう」

それはたぶん、彼女が初めて見せた、心の揺れだった。



帰り際、店の灯りを落とす由依の姿を見ながら、理佐は背中越しに声をかけた。

「……この店が、由依さんの“居場所”なんですね」

「そう。だから、誰にも壊されたくない」

由依のその言葉に、理佐の胸がぴくりと痛んだ。

それは、まるで自分の心を見透かされたようで――
そして、まだ知らない“彼女の正体”が、そっと姿を見せたようでもあった。

雨は上がっていた。

でも、二人の間にはまだ、透明な傘のような何かが差されている気がしていた。