ってな訳で。
結局「楽しい」という結論で終わったロンドン の マイズナー・マスター Scottとのwork だったんだけど。
そして、今回はテネシィ・ウイリアムズのことが、ちょっとだけわかったような気がして、その後もテネシィをひきずってる。
「ザ・レイディ・オブ・ラクスパーローション」。関係ないけど、原題の方がいいよね。disり具合が絶妙。
これ読んでて、「落語やん。長屋噺やん」と。
うちの本棚に、そういやー『米朝よもやま噺』とかあったな…。
洋の東西を問わず、同じことが繰り広げられる、長屋(ここでは下宿屋)の大家と店子。
今回のトライは、短編だったことも、良かった。
長編のいいシーン(葛藤と衝突がガチってる)は、シーンから洗い出す「事実」と「前提条件」が多すぎて、負担が大きい。(手練れには良いんやろうけど)
でも、短編は非常にシンプル。
初心者は短編を扱うべき、と実感。
俳優個人から滲み出て、立ち上がってくるものも大きいから、自信にもなる。
そーねー、長屋噺。
翻訳劇は、個人的に出てくる現地の固有名詞が頭の中で、観ている途中に日本のものに変換されたら、100点だと思っている。
その点「The Beauty Queen of Leanern」は、ビスケットが森永になった瞬間に、純粋に楽しめた。違和感なく。
「今そこにある危機」(やったけ?)も、三菱重工になったよ。イメージが。
だから、翻訳物を演るからって言って、ひたすら現地のものを見たり聞いたりしても単純にpretend にしかならない、と思ってる。
日本人は、ニッポンに根ざしてる。
だから「Les Misérables」の俳優さんが、いくら「パリの濡れた歩道を歩いてきました〜」と言っても、それはそれで、それまでのことで、1番重要なことではないと思ってる。
ほら、「ラオインキング」演ることなって、動物園行って、一日、ライオンの檻の前で観察してきました〜、っていう俳優にツッコんだっていう、エピソードトーク的な(私の大好きな話)。
あぁ、これを「ニッポン人・ニッポンの生活にスライドしたら、何が1番自然でリアリティが感じられるやろうか」と思う方が、わたしは好き。
単純に、わたしが好きなだけだが。
それが、俳優のJ O B・仕事・任務の範疇のような気がする。
俳優のインナーなんて関係なくて、どう見えているか、が重要。
でも、単純にインナーではなく、ニンゲンとして中が埋まってるかも重要。
そして、どう見えてるかを観客が判断する。
てなことを考えながら、もうキャパオーバーな本棚をひっくり返し、落語本やらなんやら見たりしてると、奥の奥から、これまた未読のこんな本を見つけたり。
資料は、手元に置いとくもんやね。見たい時に「あぁー」ってなるのが一番良い。
感情に流されない、ざらっとしつつ、リリカルなテネシィ観たいやん。
(『ガラス』の、岡田くん見逃したのは、本当に残念。
『ドライブ・マイ・カー』のあのシーン見たら、トムのモノローグ、見てみたかったなと思う。)
Scottが「yukaと一緒にworkするのは、本当に楽しい」って言ってくれたけど(「あー、みんなに言うとるで」というゴカゾクの冷静な言葉はムシ。しかし、3時間のクラス中、ちょーどわたしが演ってる時ドンピシャで帰ってくるその相性の良さをなんとかしてほしい。。。恥ずいやん。地下じゃなく、リビングで堂々と演ってたしな。。。)、本当に、心の底から楽しかったのだ。
Scottの言う通り、マイズナーは楽しいのだ。