自然を楽しむために山に行く


山に行くために車を使うし、道路を走る


山を切り開いて道路をつくってくれた人やテクノロジーがあって、お金がかかっている


歩いていくにしても、服や靴、飲み物にお金がかかっているし、テクノロジーでつくられている



自然を破壊するような都会やテクノロジー、欲やお金よりも、自然の中やナチュラルが好き、と言っても、そこにはお金やテクノロジーがつかわれていて、自然を楽しみたい欲がある


自然を満喫してもお金やテクノロジーを享受している



何がわるくて何がいいか、という明確な基準なんてつくれない


どこまでが良くてどこまでがだダメなのか、特定の視点からみた基準でなんて決められない


誰かから見ての悪(欲)が、誰かの歓び、それをどう糾弾して統一できるのか


存在しているから存在している


存在しているということは存在していい


いち視点でしかない私なんかがどうこういうだけムダだ笑



人の言動や体型や生き方なんかもそうだ


その人がどんなディメンションにいるか、どんなレイヤーにいるのか、


その人が何を人生で体験したくて、どういうプロセスでどうなりたいのか、どういう展開をさせるのか、そんな深遠な事を私なんかがわかるわけがないんだから


その時その地点のその人をみただけで、勝手にどうこう判断したり、こうしたらいいのになんて知った気になってあれこれ言うなんて余計なお世話だ



(自分の基準があって、自分がなりたい方向性があって、それを良いとしていて、そうじゃない相手がだめで、その方向性がまちがっていて、


私のもってるこっちが良い基準で方向性だからこうしな、て言えるなんて逆にすごい笑)



自分には自分の事しかわからないから


人を見ても、それはそれでいい、それもありだ、と手放せると、ただそのままを見るだけでいいから楽だ🐪


自分の基準で好き勝手判断している人でさえ、それでいいのだ、それもありなのだ🐹


その上で自分が好きなもの選ぶ


対象や相手をどうこうしようとするのではなくて、それらを見て自分が感じたことをひたすら見ていく


自分が解放、楽になる所をみつけていく


私はこんな自分の基準で生きている𓃠