仙台から弟が来て、面会時間として許された30分だけを病室で過ごしてもどっていった。

 

母に会いに。末の息子の顔を見た母は明らかに反応し、昨日と違ってもっとはっきりと

手をのばし 彼の手を握った。そして

 

 い つ き。。 い つ、き。。

 

と言った。最初なにかわらかなかった。そのうち、それは

 

 いつ来たのか?

 

 と言いたいのだとわかった。先週の水曜には言葉を話していたと、昨日医師が言ったが、昨日の時点ではとても話のできる人ではなかった。だから先週から今週にかけて右肩下がりなだけかもしれないと思っていたが、回復する、あそこからという奇跡があるのかもしれぬ。

 

  末の弟が小学校の一年生になった時、母にとってそれは、待ちに待った 1,4,1,3の日だった。だから、弟がテレジア幼稚園を卒園した春休みに、家族はその1,4,1,3を記念して家族旅行というものをした。初めての6人の家族旅行。そしてそれは家族にとってたった一度の家族そろっての家族旅行となった。

 

 1,4,1,3とは

 

 弟が小1、 妹が小4、私が中1、姉が中3、という意味である。全員が学校にあがるまで、母はそれを目標にして生きていたので、あと何年したら1,4,1,3やから、そうなったらあれしよう、これしよう、うれしい、それからは楽やと始終言っていたのであった。その1,4,1,3が来る数年前くらいからずっと。そして、その感動の1,4,1,3が来た春休みの旅行は、伊勢神宮へ日帰りの観光バスだった。熊野三山の新宮市から、伊勢神宮へ日帰りという近距離旅行を、母は何年も前から心待ちにして、それを心のささえとして、子育てして、一人一人幼稚園前から幼稚園へ、小学校から中学校に送り込んで、全員義務教育に入れ込んでしまえることができた時が、母にとってなぜそんなにうれしかったのかよくわからないけれども、母なりの区切りとして、納得のいく1,4,1,3だったに違いない。1,4,1,3の年母はまだ42歳だった。

  

  伊勢参りのバスは、美人のバスガイドさんと、ひたすらに車酔いしたことと、鳥羽の水族館にも行ったこと、さらにミキモト真珠島というところに行けなかったことを母が怒っていたこと、などを覚えている。日帰り帰宅したら、もう遅かったと思う。こういうささやかな旅行とか、外食とかほとんどしない一家だった。家族の外食は徐園という中華料理にいったことがあっただけだが、それでもやはり母は明日は徐園、今日は徐園といって、外食ができる日を心待ちにして、うれしそうに(母が一番)出かけたものだ。そのくらい、なにも家族サービスをやらない父だった。その父が、その1,4,1,3から6年で他界したから、1,4,1,3で伊勢神宮でもいいから行っておいてよかったと思う、しかない。考えてみればとても短い一家だった。

 

  だから6人そろっていた時間よりも、ずっと長く母が生きて、そして今でも生きて、兵庫の病院にいて、あの1,4,1,3のとき小1だった弟がとんぼがえりできて、母の手をにぎれるまで、まだ命が続いたこと、まるで夢のように思う。母にとって、あのとき、夢がすべてかなう日は1,4,1,3だった。