思い立って 姫路カトリック教会のミサにいった 10時からだというので いそいそと車で40分くらいか。

 

  早めについて、座っていた。だんだん人があつまってくる。親しい信者さん同士会話していたりする。どこの教会もそうですが、女性の年配の方が多い。けれども、今日はなにか日本人ではなさそうな、アジア人の人も多い。先月プレザンにきてくれたここの主任司祭のコンゴ人の神父さんが入ってきて、忙しそうで、話しかけられない。

 

  実は今日は年に数度しかやらない国際ミサの日だそうで それで外国人 特に 姫路の場合はベトナム人が多い。福音はベトナム語、英語、日本語で三回読まれ、説教もこの3つで三回やったので、ミサ自体がとても長くなった。 聖歌もいくつかはベトナムの歌が在ったり、英語があったり、色々な言葉が飛び交った。

 

 神父様は、三つのいろんな言葉で読まれた本日の朗読箇所について

説教したが、僕は日本語のしかわからない。

 

 福音書の箇所は ヤイロの娘を生き返らせ、その道すがら 出血症の女が治癒するというところだ

 

 神父さんは、信じることを高らかに強い声で語った。そして、けれども、神はまるでこの世界に死があり、病気があり、争いがあるように作ったように見えることも語った。今日読まれた旧約の中では、神が人間が苦しむことを望んでいないことが書かれたいた

 

  --- 神が死を作られたわけではなく

 命あるものの滅びを喜ばれるわけでもない

  生かすためにこお神は万物をおつくりになった  (知恵の書 1.13ー)

 

 

  神は病が治り、幸せにいきることを望んでいるという信仰を高らかに。

 

  そうはいっても、昨日母が入院し、もう長くはないように僕には見えている。寿命というものがくる。コロナからの肺炎で、抗生剤しているが、どこまでもちなおせるのだろう。祈れば、救ってもらえるのか?年老いた身体で、まだ長く耐えて生きさせることが神の望みとも思えない。そんなことを考え、その思考をすべて神にあづけて、起きてくる出来事と事件に向かって生きるだけだと思いながら、ミサに参加した。

 

 長い長いミサが終わって、外国の方々が一気に解散したが、外に出たらいろいろなグループで固まって楽しそうに語らっている。神父さんは、解散していくみなさんに挨拶をしながら見送っている。ひとしきりみなさんがはけて、神父さんの周り人が減ったので、僕は近づいて名乗り、

 

  -----  先月 病者訪問していただきました。

 

 と言ってみたが、予想どうり神父さんは全く僕などは覚えていないので、にこやかに、神父さんは

 

 ---そうですか。それではさようなら

 

 といった。それ以上なにか会話ができるようでもなく。

 縁がないとはこういうことだなと思いながら、これで今日のミサから帰って来た。

  まあ、しかし教会に行くってそんなもんだ。特に日本の大き目の教会は。