ススキノ首切断 2023年7月62歳の男性が札幌ススキノのホテルで首を切断され殺害された事件。

 

 奇妙な、それでいて自分と無関係とも思えないもの、つまり恐怖を感じてしまう。この世の地獄がここにあるとは、娘が持ち帰って来た男の頭部を見た母の言葉なのである。

 

 

 いびつな親子関係。とそのニュースは語った。娘は小学校2年からだんだん学校に行かなくなり、18歳には自宅にひきこもり、自殺未遂をした。そのうち自分の人格は死に、変わりに多重複数の人格に分離したという妄想にとりつかれる。そのため母親でさえ、娘をその名前で呼べずに”お嬢さん”と呼ぶようになる。家族はいつしか、娘の気に障らないように、娘を怒らせないように必死になる。家は娘のゴミにあふれ、父は居場所をうしないネットカフェに寝泊りするようになる。この父の仕事は、なんと人の心の病の医者である精神科医なのであった。母は”お嬢さん”の機嫌をうかがい、欲しいものを父親にもってこさせた。つまり精神医学にも不可能があった。本当はエクソシストが求められるべきだったかもしれないが、わが国は宗教を尊敬していない。つまり信じる者は救われるとしても、信じない者は救われない。

 

娘は母を罵倒し、父に言う

”あんたもそのくそアマもよどっちもよ 熟女系の風俗にでも売り飛ばせばいい とっとと売れやそのクソあまをよ”

 さらに娘は

”お嬢さんの時間を無駄にするな 奴隷の立場をわきまえて無駄なガソリン お金をつかうな”

という誓約書を書かせた

 

 警察は家族の中でこの娘が圧倒的な上位者だったと指摘

この異常な関係を娘の名を冠して”瑠奈ファースト”と呼ぶ。

 

 臨床心理学が専門の西山薫教授はこれを、娘を生き延びさせることが究極の目標になってしまった家族が作り上げてしまったものという。家族の中の常識が世界とずれていてもマヒしてしまった感覚ではその狂気に気づけない。いや、気づいていたとしても、もう娘に宿った狂気のパワーの前にはなすすべもない。

 

 実は覚えがある。こういう状況に。覚えがあり過ぎて詳しく書きづらいくらい覚えがある。

 だから、子供可愛さのあまりに、こういうことになってしまうという状況はいくらもあると思う 溺愛は愛に溺れるという熟語であるが、見事に言い当てた言葉に思える。娘は究極に愛されていたのだが、その愛はどうしても、娘の中の命のまっすぐな働きをよびさますことができず、なにか残酷な狂暴なものだけをエスカレートさせるような悪循環に向かう道から もどすことができなかった。実に、こういうパタンをやはり僕はいろんなところで見てきた。

 

 これは他人事だろうか。とてもそうは思えない。僕が息子や孫を育ててきて、結局どこにその紙一重があったか、あるいは今あるのか、どこかいつもぎりぎりなものを感じる。どうして僕らは事件を起こさないでいられたのでしょうか。それは運がよかっただけだ。などと思えてしまう面がここにはある。僕の父母が僕を育てて、僕がそうならなかったのはどうかな。たんなる偶然ではないかな。どこからエクソシストを必要とするような悪魔が入ってくるかは誰もわからない。僕がこうして普通人のつもりでいるのは、どういう欺瞞だ。

 

事件の顛末は

 

  娘はススキノの閉店イベントに父とでかけた。そこで出会った62歳の男(ちょっと。お爺さんではないすか。僕とおなじほどの。娘は30だそう。こっちももう娘というには大人の年齢である。)と意気投合しカラオケに行ったのだそう。父は、家族以外と意気投合できた娘を喜んだという、30の。しかしお爺さんは、無理な性交を強いる爺さんであった(お亡くなりなので不謹慎とは思いますが、お元気な。)。娘は殺意がめばえた。その後、また会うことになるが、娘の父は危険を感じ、娘に会わないでほしいと、爺さんに電話。

 

 爺さんは

 ”むこうもあいたがってるわけだから”

 と言った。ああ馬鹿なお爺さん。やめとけ。僕は一人の罰当たりとして言いますが、爺さん同情できにくい。ひょっとして62にしてはチョイ悪かっこいい系だったのだろうか。それでもつらい。こなってしまうと。

 

 父が娘に対してその爺さんに会うなということができなくて、爺さんのほうに言ったというところに、父の娘に対する無力感がある、とニュースは言っていた。

 

----- おじさんのあたまもってかえってきた

と娘が言い、母は風呂にあった頭部を見て 

 

-----  この世の地獄がここにありました

 

と公判で言った。それは地獄です。地獄といわずになんと言う。しかし、娘はその後、遺体損壊の動画撮影を強要、父親が撮影

母はそのあとしばらく遺体のある家で家族ですごしながら もう警察の手がそこまで迫っていることを感じていた。

 

  おそろしいけれど、注意してないと、自分がそこに落ちて行ってしまいそうな、人は容易に狂うということを思い知らされる事件である。というか、その人たちと自分と全く違わない、同じ人間である、というのが正しい。罪悪深重の凡夫である。それ以外の何者でもない。僕は。そしてあなたも。この世の地獄はそこにあり、どこに狂気が転がっているかわからない。僕は祈るほかない。僕は同じだ。十字架と罪というイメージそのものの姿はここにある。そんなものと自分が違うと言い張ることに無理がありすぎる。

 

 だから僕の書いていることは社会問題ではなく、あなたや私の中にある問題なのだとしか、僕には思えない。理屈はまったくわからないけれど、そういう気がする。