2006年の12月だからもう18年前になるのだが、42歳にしてやっと国際誌に論文が載った時、自分へのごほうびに、吸引式の万年筆を買ってやった。その二年後に学位を論文博士でとった。僕はドケチの倹約家なので、この7万円もした万年筆は自分だけのための、あってもなくてもいい買い物としては生涯一度の奮発だった。ずっと昔に亡くなった父が持っていたモンブランの万年筆を形見にしてもらっておきたかったのだけれど、あいにく壊れてしまっており、その代わりに自分自身に与える父の形見を再生してみたようなところがある。僕は父が好きだっただろうか? 父は東京の貧しい八百屋の次男なのだが生みの母を事故で失っていたから、育ててもらったのは祖父の後妻(これがまた仏のような人だったというがこの人も早逝したため一家はなにかと苦労したのである。戦争もあり。)とのことで、その写真など僕はもっていない。

  父は理科大を出て(貧しかったのに私立の東京物理学校?働きながらということで夜学のある東京物理学校を選んだとかいう。)、紆余曲折で田舎の理科の教師になり、やがて母と結婚して僕が長男として生まれたのが1964という昭和の戦後の明るさが開花していくころだった。東京オリンピックにちなんで僕のペンネームでないほうの名前はついている。田舎の理科の先生の家は、いろんな科学の本と、虫たちやら花たちやら、電気の道具、エナメル線、豆電球、理科のがらくたがいっぱいあって、僕はずっと生まれつき研究者になりたかったのだが、父が僕が18の時に死んでしまうと母子家庭でもあったのでさすがに博士課程に行っているわけにもいかず修士だけなんとかいかせてもらって就職したのでした。

 

 いくつか仕事を変わったあと、この研究所の技師をしながら、やはり研究者へのあこがれつよく、技師は研究をやってもいいし、給与面も実質研究者となにもからないという設定のめずらしい画期的な国の研究機関として発足したJASRIだったし(欧米はエンジニアのスタータスが高いという話があって、そのころ)、そのうち技師という職名も研究員(技術担当)とかいう奇妙なネーミングのに代わっていたが、やはり学位がない分、どうにも半人前という感じがしてならなかった。

 

  ここで仕事をし始めて10年もたとうとしていた。いろんなものを開発し学会発表もしたが、国際誌に一本も書いてないというのが、まずいなとずっと思っていた。あるときやり始めたテーマが、ダイヤモンド薄膜で高輝度放射光X線ビームを見る方法(注)なのだけれど、これについては自分で思いついて始めたものだし、自分の論文として出しても文句はないだろうと思い、奮起して書いてみた。大学の同級生で大学や企業で研究者になった連中は、博士課程の間にジャーナルの投稿など20代で経験しているので、僕のはずいぶんと遅れた論文発表となったけれど、やるしかない。そう思って書きあげたが、こんなもんを本当にのっけてもらえるのか、リジェクトされて終わりなのか、と不安だった。それほどインパクトファクターの高くない雑誌(Review of scientific instrumentsというのです。ちなみに。IFは高くないのに、そんなのに出すのにおおげさな、と”やっている人”なら思うでしょうが、なにしろ処女作の投稿ですのでびびりまして)であったが、不安は不安、さてどうなると神に祈る感じであったが、生むがやすし、ちゃんと載せてもらいました。

 

  あなたの論文はアクセプトされました、という内容の英語のメールが来た。生まれてはじめて(正確には国際学会のプロシーディングで査読ありでアクセプトっていう経験はあったが)国際的な雑誌に僕の名前を冠した論文が掲載された。レベルの低い感無量だが、その日から、僕は自分は研究者になれたと思ってもいいと自分に許可をした。

 

 その後いくつかの論文が出せて、過去の学会発表なども合わせて博士論文を書いて高エネルギー加速器研究機構(総合研究大学院大学)で審査してもらい、苦労の末に博士をもらった。苦労の末という言葉を書いたがまったくそうだと思っている、常に自己評価の過激に低い僕のわりに、これについてだけは。苦労をしたなあもうという経験なのであったまったく。いっぺん落とされたし。今は施設にいる母はそのころにそんな僕をみてよくやりましたというより、いらん苦労をしているといって笑う。そんな面もある。僕は途中で専門を変えたというのもある。(この研究所に来る直前、妻が他界したのでもあった考えてみれば。)

 

  という長々しい文章の意味は、そういうことで、7万円もする万年筆を、最初の論文が載ったときに僕は僕自身に、ほめてくれたかもしれなかった父の形見を父が渡せないで早逝してしまったかわりに自分自身から受けとった。ということを考えたことがなかったけれど、考えてみればあのペリカンは父が僕を通じて僕に与えてくれた家宝なのだ。ということにする。

 

(注)そんなノーベル賞とるような有名な話でもないのですが、この方法でその後建設されたX線自由電子レーザー施設SACLAのビームモニターが作られてます。