世界三大宗教と昔習った。今はキリスト教が20億人、イスラム教が16億人、仏教が4億人だそうである。圧倒的にキリスト教が多いわけではもうないが、いまだかつでプロテスタントもカトリックも会わせてしまえばイエスの教えたキリスト教の人数は若干だけ多めなのである。

 

 あほと思われてもいいから勇気を出して言う。宗教がわかれているのは、あなたのためだ。あなたがその教えとかいう分裂したセクションにこだわるからにすぎない。世界の人口81億人の今、この三大宗教の合計が40億人、つまり半分はこれらのどれにも改宗してないいろんな価値観の人たちだ。それらが全員地獄に落ちろと呪う権利は誰にもない。イエスはみな愛し合え、それが掟だと言った。

 

 イエスは神が分かれて争うわけがないと言った。イエスは、あなたは悪魔の頭ベルゼバブによって悪霊を追い出しているのだとなじられたことがある。そのときイエスが言ったという。

 

  神が分裂するわけがない

 

 だから世界三大宗教とか、あるいはたくさんのいろんな宗教が自分が正しくて奴らが間違っているということが、ほんとうはあほなのである。

 

 というようなことをぼざきながらも、やっぱり相変わらずイエスというものが本当にいたのかどうか、気になってしかたがない。三大宗教の釈迦 イエス マホメット というお三方の中で、やっぱりキリスト教徒として生まれてしまったものにとって イエス という人は魅力にあふれている。(人といったら敬虔な教徒が怒るのか?昭和天皇も人間宣言したのだった。イエスが人間ではなく神であるというなら、あなたも私も神である。戦前の間違いは天皇は神だが民は人間だと誰かずるい偉い人たちが言って人々を苦しめたことだ、本当は原爆で死んだ広島で働いていた韓国から連れて来られた人も神の子だった。)

 

 イエスは愛を説いたというが、キリスト教は罪罪罪と言い続けたので、とても教会に通えるほどの人生を歩めなかった僕は、ペトロという初代教皇の名を幼時洗礼の時に洗礼名として選んでくれた父の願いをかなえてあげられない。

 

 それくらいキリスト教があたえてくれたイエス様像は僕にとって罪の象徴であり、僕を責めるものである。だから僕には無理なのである。あのイエス様像は。だからたくさんの映画を見てイエスをさがしたが、あれはみななにか不自然に思えた。

 

 

 

 

 

 

  これらの映画のどれも、イエスという人物に何故人がついていく魅力があるのか、とうてい描けていないように僕には思えた。こういう映画のイエス様はいちおうみな男前がやるのですが、聖書に忠実だとセリフが格調高すぎて、ほんとうにこういうこと人間が言うのかなというような、妙に国会議員の演説のようなセリフを語るイエス様になってしまわざるをえず、愛のパワーみたいなものが見えてこない。こういうことは宗教家を題材とした映画だとよく起きる。三國連太郎監督の「親鸞 白い道」などでも、なぜこの人に皆がついて行ったのだろうかと思えてしまうような主人公が出てくるのであって、宗教家を描くことは本当に難しい。内面のことだからかもしれない。道元を描いた”ZEN”などもそうで、いろいろエピソードでたたみかけてはくるが、実際のところ只管打坐といってひたすら坐禅した人を映画にするというのは、どこをどう感動したらいいのかドラマの作りようがないといったところなのだろうか。

 

  福音書も、なぜイエスにそのような魅力があったのか、本当のところそれを読んでいてもよくわからない。宗教家は存命中のその人をリアルに見て体験しなければほんとうの魅力はわからないのだろう。

 

  そういうわけで、どの映画を見ても、やはり人間が描くものは真実のイエスにはならないという宿命がある。むしろベンハーのように後ろ姿しか出てこないキリストに、なぜか多くの人がリアルを感じるのではないだろうか。