決着をつけたのは12月も迫って来たころだった。11月に新規オープンするという施設があり、そこは少し高いけれどどうですかということになった。内覧会を経てそこに申し込みを出した。何が決め手だったかというと、紹介してくれたケアスル介護さんだったかの担当の人のこの言葉。。

 

  --- 新規オープンのところは、人間関係が作りやすいのでいいのです。

 

 それで決めた。金額高めの有料老人ホームだったけれど、母の年金と貯金といろいろ考えると行けるという計算になった。なにかの本に、親の金でなんとかするということを鉄則にするということが書いてあって、それによって共倒れを防止する、のだとか。クールに冷静に、貯金はいくら、私は母はいくらもっている、どうやればどうなる、と計算をし、そこに入居してもそう簡単に共倒れにならないという結論を見たうえで、話をすすめた。

 

  このブログにさんざん実名を報道してしまったので隠すこともできないが、プレザンメゾン姫路広畑というところに入った。新規のところは人数少なく発足するので人間関係作りやすいですよ、というのは本当だった。まずなにより、僕のことをスタッフや施設長や生活相談員やケアマネそれに看護師 介護士のみなさんが覚えてくれてしまえた。母のことももちろん僕のことよりも余計にたくさん覚えてくれて、母が入った時で入居者10名以下くらいだったので、いわゆるアットホームな世界ではじまった。

 

 内覧で行ったとき、さすがに姫路で一番高い老人ホームが新規オープンということで、豪華な玄関(もう何度もいって慣れましたけれども)だなと思ったし、食堂兼ホールも美しくて広くて高級レストランのようだなと思えたし、厨房も広くておいしい料理を作ってくれそうだった(試食したのだが、見事に老人向けに健康的に薄味にした和食だった:内覧会故の特別食なのだろうなあとは思った。もちろん、いろんな意味で冷静に)、部屋のほうも美しく広かった。窓の景色がちょうど建設中の隣の特養の工事現場だったのと電信柱だったのが気になったが、その電信柱が正面の部屋はあとで変えてもらえた。まだ人数少なかったのとキャンセルもあり。つまりやはり早めに入った人の特権的な。。夢前川が見えるいい部屋になった。

 

  看護師がいてくれること、ネットが使えること、面会フリーなこと、往診があって主治医をまかせられること、生活リハビリという形にはなるが理学療法士の指導があること、いろいろな意味でここにしてよかったと感じた。空きをずっと待っていたA施設と同じ感じだが、新規の分、人間関係ができて母も入りやすかったと思えたので、やはりこちらで善かったと結論している。いやそう思い込むしか、僕にはないともいえる。そういうふうに僕がきめ、歩きの弱った母をここにつれてきて、部屋に案内され、身の回りのものをそろえて生活できるようにして、介護用品が使えて、すぐに歩行器を貸してくれた(どこの有料でもそうかもしれないが、いちおうこういった道具に関して料金が増えるわけではない。支払ってある介護度ごとの費用のなかからやりくりしてまかなわれる)。そのうち車椅子になったが車椅子のレンタルで料金が増えるでもない。母を入居させてから、面会フリーを生かして僕は毎日のように会いに行ったものだった。有給休暇も介護休暇もいろんな休暇もどんどん使いまくって。

 

  入居から半年、プレザンメゾンのオープンからもだいたい半年、つまりほとんど最初から入った感じになっている。一年経たずに人数は7割埋まった感じである。入居していろんな契約をしながら、いろんな人と話した。主治医の往診をやってくれる病院のスタッフの人から、こういう施設はオープン時は新しいので介護度も低くてみな元気なので明るくていい感じなのですが、2年たつとぐっと変わってきます、とも聞いた。そんなことはたくさん見学してきてわかっていたことでもあったけれど、。そうなのか、そういう覚悟だなとも思った。母はけっこう重いほうの人だから、先にそのぐっと雰囲気を変えて行ってしまう人のほうに入っているのだ。以前に見に行った、評判もいいかかなり高価な介護施設は、重い人があふれていて、母がここに入るのかと思うと気が重くなったのだけれど、それもきっとあそこが年数をかけて変遷していった結果なのであろうから、なにも悪いわけではない。

 

 理想の介護施設を求めての結果が、プレザンメゾン姫路広畑だったという結論は、ここそのものが本当に理想なんですかと問われると、それについて究極の答えはないようにも思う。つまりものごとはそう単純なものではない。それぞれにとってそれぞれの理想がある。僕はここに何度も面会にいき、職員さんの様子もよく見てきたし、どれくらいにやってくれているかもつぶさに見てきた。すばらしくよくしてくれていると思っている。逆に、僕が家であれをつづけられましたか、というと限界は見えていた。弟が正月にきて、うちに滞在して母に会い、妹もよく名古屋かからくる。母は、ここにいたほうが子供らに会えるようになったというような気にもなっている。長い年月、一年に数度とか何年かにいっぺんくらいしか会いに来ない子らをまって新宮市の実家に一人暮らしてきた母だ。しかしそれも、もう記憶がどんどん消えていっている。

 

 つまり僕は哀しい。先日新宮市の実家を実を僕の名義にする手続きを始めた。空き家はどんどん劣化する。貸すか売るかしなくてはならない。新宮市は南海トラフがきたらひどいことになるが、実家は高台にあり状態もいいので、おそらく高く売れる。今なら。そんなことも考えなくてはならない。長男だからとかいう古典的な理由で。それは受け入れている。母が完全にわからない人にならないうちに司法書士さんに相談して動き始めた。途中母が脳梗塞で運ばれ、この名義変更は無理かなとおもったが、もちなおして続けた。実家を売るも貸すも、とにかく僕の名義にでもしないと、進まないので、兄弟と相談してそうした。

 

 昨日ユーチューブで元介護士の人が、介護施設なんかに入れるのはお勧めしない、金があれば自宅で全サービスを使ってヘルパーがたくさんきてやった方がいいと言っていた。そうかもしれない。母のもっている貯金からそれはできるのかもしれない。わからない。僕は僕のやった選択を信じて生きていくしかない。だから毎週土日いかならず会いに行き、そしてこないだの梗塞からますますしゃべらなくなって、祖母の最晩年にルックス的にも性格的にもかたことの喋り的にもそっくりになっていっている。頻繁に会いに行くから、けっこう他おばあさんら(おじいさんよりおばあさんが圧倒的に多いのです。そして介護士も女性が圧倒的に多い。)にうらやましがられていたりもする。僕はマザコンですのでと笑う。いつまで笑える時間があるのかもしれないが、今は、ここを理想の施設だったと信じて、いけるだけいく。どこへいくのか。神のまします、イエス様のまします、本当のふるさとにむかって、と本当に僕は信じるので、いつか行く道を経験しているのだ。